まぼろしの美しい理想世界

最近、睡眠中の夢を見た。

   

私は子供になっていて、国は戦争をやっていて、家族ぐるみで南の島へ飛ばされる夢だった。

私は病気を持っていたらしかった。

家族は大変明るかった。

私にはお兄ちゃんがいた。

年下の兄弟もいた。私は真ん中の子のようだった。

でも可愛がられていた。兄妹仲はうまくいっていた。手をつないでめちゃめちゃ走っていた。

お兄ちゃんも疾患を持っているらしかった。なんとか症候群の軽い物のようだ。でもなんでも私と行動してくれた。


国は、私たちの家土地を取り上げた後、所有者なんてガン無視して、家を取り壊し、

家財を材料にして、なにかを建築し始めた。建築現場で、私の毛布が使われていた。

でも怒る気持ちにはならず、おねしょをしたことのある毛布だから、恥ずかしいから手元から無くなって良かった、ぐらいに感じていた。

私たち家族は、町の人気者らしかった。だから国にうとまれ、戦中なのに家族で左遷させられるらしかった。

近所や町の人たちが集まって、うおぉぉぉー とお祭り騒ぎをしてくれた。

この夢の両親は、みんなから慕われる思想犯かなにかなのだろうか 町ぐるみで支持してもらえていたっぽい。

そして国は、弱者をないがしろにする独裁国家かなにからしい。


私はやっぱりここでも発達障害なのか、長旅の自分の荷物なんてまったく考えていない子だった。

住み慣れた土地から離れる不安なんて、なにも考えていない。ちょっと行ったらすぐ帰れるくらいの気分だった。

こういう子が、道中、ぐずり出すんだろうな~。

でも出発前は、お祭り騒ぎに乗じて、ヤッホー な感じで、仲良しのお兄ちゃんと走り回っていた。

この子は、「荷物の用意をしなさい。」と、人から言われないと、発想も湧かない、今と同じようなスペクトラムなのかもしれない。

  




北の将軍様、「今決心した」って

北の若い将軍様の生きてきた世界は狭い。

ヨーロッパのどこかの、閉鎖された寄宿学校で英才教育を受け”将軍”に育てられてきた。

これは想像だけど、

笑顔で先生に従順を約束した後、ケロッと裏切ることぐらい、たやすく身に付けられたのかもしれない。

そのあと許されたり、周囲が卑屈に謝ってきたり、機嫌を取ろうとしてご褒美が与えられれば、
『約束を破って裏切ることはいくらでもしていいことであり、特権階級は許されることである。』と学べるだろう。

もしかすると先生の一人、二人、三人、それ以上飛ばしたり、消したかもしれない。

悪いことの強化のやり方だ。

そういう横暴を、自分の腹いせ、ではなく、目的を持って権力固めのためにできるかどうかで、頭の良さは問われるかもしれない。

だから亡き父親に後継者に選ばれたのかもしれないね。

ヨーロッパの学校はどういう教育をしてきたのか、それこそ〇春にでも調べてきて欲しいものだ。



ランキングの中のブログを読んでいると、たまにはっとする現実を知らされることがある。

たしかに当事者が何十人いても、自分と意見や方針や波長が合う人なんて、一人いるかいないか、なのだ。

確かにそうだ。

私たちは、お互いを受け入れづらい。

数々のブログの記事を読ませてもらっていても、このテーマならもっと深められる書き方があるとか、引くぐらいきついとか、抽象的で説得力に欠けるとか、つい感想を感じてしまう。

しかし戻ってきて、自分の文を読んでみると、ぬるいわ、まとまってないわ、日本語の整理から間違ってるわ、の醜態の限りだ。

こんな発信力で、交流できる場へ出て行っても、お互いが衝突しに行ってるような言動にしかならないだろう。


お仕事とは違う。

お仕事は、業務の目的と誠実な取り組み方を共有して、業務をより効率的にして、結果を出す、ことが求められる。

結果や、成果に向かっていける。


軽度当事者交流とか、ネットの交流とか、そういうのは違う。

目指す目的はなんなのか、それぞれが自分の中に持っているのだ。

共有できない。

仮に「似ているね。」って思ったり、思われたとしても、「だからわたしと同じになってよ。わたしのお世話係になってね決めたからねお礼言うからねいじめるからね甘えるからね嫉妬するからね束縛するからね依存するからねリンチするからね虐待被害経験者たちは特別なんだよ24時間いつも優しくしてね。」になるのは違うんである。


許せないままひしめきあってリアルに、ネット社会に共存している”ASD”二次障害強め所持者たち。


そもそも他人を”許せない”特性の者同士。

“許せない”のが基礎であり、だから、

知らせ合わない。

ネットは危険な場所だから、自分のことを書き過ぎない、というルールもそうだ。

野良レモンはとりあえず、危険だから書き過ぎない、のルールは今まで意識してきた。


ASDのいることを前提にするとして、

自分のことを書いても、受け入れられない、許されない、のがお互いの特性なのではないか。

相手のことが詳しく解るにつれ、あの掲示板では『相談に乗る』という目的に、さらに取り組みやすくはなったけれど、

本来は、人のことが詳しく解ってくることは、憎悪を呼び覚ます引き金にもなりえたのではないか。

もちろん、ASD二次障害強め所持当事者たちは、人を憎悪しながら決してエヘラエヘラしているわけでは無い。苦しんでいると言ってもいい。

公平さに敏感だし、正義感強いし、モラルにも無限にこだわれる。

優しくかまってあげないで放置すると、自己矛盾してると認識するがために、自己憎悪で簡単に二次障害になって大騒ぎできる。

後処理に何人も巻き込んだり、長期間かかったり、お金が掛かる場合もある。


ASD支援にはお金が掛かる、という一説があるが、一理ある。

過敏だから温かくしたいし、ちゃんとした美しい物をそろえたいと考える当事者が多いし、

ショックや怒りで寝込んだり、話し合ったりしてしまうと、夜が更けてスーパーの営業時間は終わってしまうから、割高になるコンビニやネット通販を覚える当事者も多くいる。

ASDは、自閉的こだわりから、本当は節約術に長ける人も多いのだ。だから節約できない生活はストレスを感じる。
野良レモンのように、忙しさでクーポン券の期限をうっかり過ぎてしまうなどは、本来ならだらしなさ極まりないバ〇ヤロウなのだ。ASDの風上にも置けない。

地理に弱ければ移動に時間を多く使うことが考えられるし、さらにこだわりの趣味があれば、(たとえば海月姫のように)地理が煩雑でもどうしても展覧会に行きたい、と思ってしまうかもしれない。
寝食を削るかもしれない。

寝食を削ると、ASDの多くは簡単に体調を崩して倒れる。ひどいと仕事を休む。通院代がかかる。

だから休日のスケジュール割は、野良レモンもいつも悩んでいる。

野良レモンは状況によっては職場に休日出勤もして、遅れを取り戻したい時期もあるからだ。


話を戻す。

いや、話はまだ飛ぶ。



日本の、地方の奥深い閉鎖的な集団では、互いのことがなんでも分かりやすい。

それでも ころし合わないで共存するために時に、過剰な謙虚、卑屈にふるまう文化がある所があるという。

事件が起こる場所もある。

逆に我が侭が過剰に許容され、無医村の村のお医者を何人も追い出せる例もある。

近代化とともに、人に向かうことは無くなり、地域の神社などの神様系に、信仰が向かう場所もあるみたい。

これを”一般の普通の人たち”でくくることは、していいのかわからない。

住人に発達障害の特性があっても、困らないで生きていけるコミニュティが機能しているなら、

もしかすると外部からは入れないバランスが成り立って、閉鎖的にでも機能するかもしれないからだ。

ただし、そこの農産物も出荷するだろうし、パソコンの線だって引くし、スマホの電波も届く時代だ。

完全な閉鎖が、これからも通用するとは野良レモンは思えないが、甘いんだろうか。




話を戻す。


ASD特性の強烈な拒否感を、共存させるにはどうしたらいいか

抑圧したら、されたら、そもそもその場からいなくなるしかない。

だから、共存するための、了解、他者肯定、融通、柔軟、協調、そんな言動が出来たときに、より強化してあげるしかない。

共存するための言動、ができないことを責められても、私たちは曲がらない。



私たちASDの修羅の生き方の特徴は、”認知の歪み”という、地獄から這い上がって来なければならないところにあると考える。

大袈裟で過剰な極論。"認知の歪み"の構成部品だ。

“認知の歪み”があって診断、支援無しで育つと、郵便ポストが赤いのも自分が悪いって本気で思えそうになるし、

グレーゾーンがそもそも理解範疇に入らないし、世の中で本当に悪い人間は犯罪をして逮捕された人だけであり、

学校のお友達から殴ってきても、もっともっと素直に可愛くして仲良くするのが正しい模範生じゃないかとか考えるし、

人から殴られても犬から齧られても、もし笑顔で仲直りする天才になったら『野良レモンちゃんはそんなに人にきれいな心を持って接する人なのねそこまでして人の言うことを聞くいい子なのね』って大人たちに扱われるのが正解だし、そういうプロセスを経て注目されて、たくさん構ってもらえる自分が理想だったし。

究 極 の い い 子 。 でも理想に追いつけなかったから自己否定感の塊だったけどね。

(要は、大人から回数、構ってもらえるようになれば、受け身で知らないことを知らせてもらえるかもしれないって、本能的に必要なものを入手しようとしていたのかもしれないね。自分から聞くなんて、我が侭で性格悪そうな子って思われる危険行為だった。受け身こそが美しい自分を成立させるような気が漠然としていた。)

そこまで気持ちのコストを掛け、消耗して来たのに、私たちは

一般の普通の人たちの社会へ出て、たとえば「同時進行では仕上げられないので、順番で仕上げていいでしょうか。」とか

「五つのうち三つからまず取り掛からせていただいていいでしょうか。手元の作業が混んでいて、混乱しないように取り掛かりたいです。申し訳ありません。」などなどの言葉を研究して覚えて、

つまりは

『いっぺんにはできません。きついやつは私だけさぼらせてください』と言ったと取られかねない言葉(本当に取られたことあるよ。)を、

へりくだって頭を下げて言わせられる立場を強いられるのだ。


マイペースや信条、予定、姿勢、曲げられるだけでも、ストレスなのだ。

私たちは、ストレスで人よりすぐ消耗する。疲労に鈍感で、気付かない。

子供の時に間違って培われた、”認知の歪み”が歪んだままの、理想世界は、たぶん美しい。

大袈裟で過剰な極論。"認知の歪み"の構成部品

ASD個人、おのおのの想像力が反映された、美しい理想世界。


グレーゾーンを見ない世界、近くの、コントロール可能な力関係の者を、理想を叶えるために束縛し従わせ、

リアルの現実の生活に、思い通りの美しい理想が、時々、反映されたこともあった、たぶん心ある人たちに同情されて見逃されて、反映されたように感じた、過去の世界。

反映してもしても、まだ足りない、もっともっと足りない、満たされない不足感。

思い描いてきた理想の空間では、美しい物が美しいまま、美しさを増しながら、美しいプロセスで展開し、進行する。


理想の実現は、過去には唯一の救いのような気がしたかもしれないし、

いつまで溺れても物足りない、中毒物質のように依存していた当事者もいたかもしれない。

悪人認定された悪者たちが、正義の制裁を受けて血だるまのしたいの山に積みあげられる、"当然の報い"が機能する世界に、美しさを感じてやまない当事者もいたかもしれない。
(野良レモンはデスノート反対派だけど。)

何人も異性をカサンドラにするほどに楽しく、でもいまだ欲求が湧きやまずに苦しむ豪傑当事者もいたかもしれない。


軽度当事者で集まると、その、美しいもの……大袈裟で過剰な極論。"認知の歪み"の構成部品……に縛られていた時代を、思い出すのかもしれない。


しかし、美しい理想世界は、実現しない。

テレパシーは通じないし、睡眠もお手洗いも食事も無しで永遠に理想の賞賛と愛情の言葉を浴び続けられることは無いし、

ある日、空中からお金と食事とドーパミンは出てくることはないし、季節の変化の無い静かなお部屋に引き籠る環境も出てこないし、

地面に呪文を書けば、家族恋人友達とか執着している人たちとの仲介役の妖精が、出てくるわけが無い。

もしもインターネットで見つけたお世話係を、仮に飛行機に乗せて呼び寄せて命令したとしても、どんなに理想世界の正当性を正当化したとしても、生身の人間には物理的に用意できないんである。

ASDは、美しい理想世界……大袈裟で過剰な極論。"認知の歪み"の構成部品……に、ともすれば進んで縛られたくなるのかもしれないが、縛ってもらえる日は来ないし、

不可能なのである。