雑談よっつ
ただの抑うつじゃないよ。尊大でプライドが遥かに高いゴロゴロ態度。
自家中毒、という言葉、ものごころ付いた頃から耳に入ってた。
なんとなく、自我が強すぎて胃腸に症状をきたす、みたいな意味で、むかしの昭和から使われていた。
ふと、検索してみた。
全然違うじゃん
なんか医学的な根拠のある、子どもの消化器系疾患じゃん
ああヤバいヤバい。言葉を知らないまま、目上の人たちのいる場で使ってなくて良かった。

自分の半生の、むかしからのトラブルの収束の仕方を思い返していた。
権力で押さえつけられたり、働く場、などお金と引き換えにすること以外では、
関係性の時計の針を元に戻す勢いで、お相手側であれ、自分側であれ、会話の上で、エラーが起こった事実そのものが無くなるまで粘らないと、私は承知できない例はあったと認識している。
ただ、そんなプライベートなトラブル自体は非常に、雀の涙と言っていいほど少なかった。
私相手に、私生活でそこまで土足で踏み込んでくる人間の登場しない、環境で生きてきたんだと思う。
始まる前から成功と合格の約束されたコミュニケーション、じゃないと受け付けられないスペクトラムがいるASDは、
私のように、自動的に、身の回りの環境を調節してしまう。
そうしないと生きて行けないからだ。
その結果、経験不足で、同業者以外の人との雑談、心の開き方、交渉、などが、かなり出来ないまま歳を取ってしまう。
そのことに気づいて、ネットで謙遜すると、『レモンむしぱん(過去のハンドルネーム)は自分の身の程を考えようとしているから、殴られても謙虚に許してあげる、ターゲットになろうと努力するんだよね
』と、足元を見られて、喧嘩を売られ、挑発される。
つまりは、リアルの現実で通用するまで向上したいのに、結局、向上できない。
私は、『合う人たち全員に良く思われ、好感を持たれる』まで努力しないと恐ろしい強迫観念から、まだ解放されない。
20年前、「発達障害者の社会適応は、普通の人の倍努力をして遅れを取り戻さないと許されない」という、
プレッシャーを掛けられたと私が認識する指導が、横行していて、それを心から素直に聞き、ガッついた。
記憶はまだまだ消えない。
会う人、会う人、全員に「はい」「はい」「はい」「はい」言いたい。
可愛く言いたい。
陰でも良く噂されたい。
食事にもお茶にも誘われたい。
分からないことを聞けなくなるから。分かるまで教えてもらえなくなるから。許されなくなるから。解雇に追い込まれるから。
繰り返し書いてきたよね。
自意識過剰の症状じゃないんだ。
私たちの不便が解消される手立てが、国のどこからも示されないどころか、リタリン騒動とコンサータで振り回して、
国が私たちを『いない者』扱いという仕打ちまでして、生存を無視した。
生かされなくなる恐怖。無視される恐怖。
忘れられない。
だからいい子になりたい。人に良く思われたい。不可能なのに。でも、目指さないと、生きて行けない。
生かされなくなる恐怖。無視される恐怖。
ASDの中には、始まる前から成功と合格の約束されたコミュニケーション、じゃないと受け付けられないスペクトラムがいるのにね。
自分を、曲げさせられる社会。
いびつに曲げられたまま、無視され、放置される社会。

合法的な擬態。
偽善とも、騙しとも言われないで、でも健全で適応的な可愛い
受け答、口を閉じて生きるには。
で、恨まれないで、恨まないで、合法的に
こんな親から反対されそうなブログも書かないで
どこか当事者会でマウント取ることも無く
嗜癖依存も駄目なものは駄目だから。
やっぱり人が私の手を引いてくれて、お願い
お願い
お願い
お願い
してきて、おだててきて、話を聞けるお医者か専門家のところへ定期的に連れて行かれることが組み込まれた生活を、
受け身で待ってても持ち掛けられる
ドヤって上から目線で話せる定期的な場
そんなのが無いと、全国で、私たちの文句は静まらない。

やんわりネタバレ、でもないかな。
アナとオラフのあの多弁はもはや芸だ。
笑いが取れる芸だ。
多弁特性付きADHDの世界の認知が早く進むと、嬉しいわねぇ~。
エルサの冒険が、見ているだけで、物理的に痛そうなことばっかりやってて。
決して顰蹙(ひんしゅく)という意味のイタさではないよ。
痛覚どうかしてるんですかと言いたくなる痛いことしてて。
びしょ濡れの身体で氷の板の上歩いちゃ駄目なんだよ本当は。
濡れた水分が氷に接して、そこから凍って、人間の皮膚ごと持っていかれる危険があるんだよ。
どこで乾かしたの。ていうかそもそもエルサ、服も身体も乾かす気無いでしょ。急いでて。
姉妹の身体能力はものすごい。
突っ込みどころはたぶんたくさんあって、
ググったらたくさんの人が書いているだろうから、私が張り切って書くことじゃないな。
冬に温泉
に入る人たちは気を付けてね。露天風呂で雪見したい人は特にね。
滑って転ぶ前に、手すりにつかまりたいのは当然だけど、つかまる前に手すりをよく観察してね。
もし金属の手すりだったら、爪の先でツンツンして、貼り付きそうなら触らない。
露天風呂までの床が濡れて凍っていたら、滑って転ぶ危険がある。さような場所でのスタイルは、当然、あられも無い格好でだ。やめるという選択肢もある。
そこを見越して、なんかザラザラした特殊素材を入れた床や、ゴムでフカフカした手すりにしている温泉もある。
そういう温泉なら、露天風呂で雪見もいいんじゃないかと。

で、思い出したんだけどさ、アル中の議員さん、忘れていたけど、またやらかしたらしい。
勝手に身を滅ぼしている分にはなにも言わないけれど、我が国の可愛い
お姫様に暴言をはいた


いっそ竹島にアウトドアグッズ一式持って、住んでくれればいいのに。
本当に準備して行動したら、三億円
寄付がもらえるんでしょ。漁業の人たちも、安心要素が増えるんだ。
お酒飲んでクダ巻いても、自由なんだ。
そのまま防寒しないで寝たら駄目だけど。
エルサなんて国のため、人々のために、なんだか遠い島まで自力で………………
アル中は身を亡ぼすね。
治す意志があるのか、それとも病識がまだ無くて、高をくくってて、この事態をナメて掛かって、意志が無いのか、どっちか分からない。
でも時代が違えば一族処刑ものだよ……

体重計の針は動かないんだけど、体感が、ますますぽっちゃり
そして今年、まだ乾燥肌のかゆみがあまり無い
やったぁ
肌にね、脂肪分が不足するとかゆくなる説があるんだって。
あまりかゆくないってことは……
……
……
やっぱり悲ちいよ……
身体のあちこちの管が詰まってきてる気がする。
油断するとむくみが来る。油断してなくても来る。
久しぶりに吹き出物が出来た。
筋肉が突りそうになる。筋肉の電気やミネラルのバランスが良くない時に起こるという。
血管はまだまだ大丈夫よー
だからって、後は、どうしろと。
カロリーが使われないで滞ったままポチャるのを待てと
ひどいわぁ
野良レモンが酵素を飲んだら、胃に痛みが来る現象が浮上した………
でも調べると、胃の痛みは関係ない説ばっかりだった。
酵素関係なく、胃が痛んでいる可能性も浮上した。
で、よく立ち寄る定食屋さんで、トンカツ定食にしてキャベツの山盛りを食べた。
その日の夜は気持ち良く、落ち着くこと落ち着くこと。
で、
私は酵素サプリメントはいつ飲むんだ
寝る前か、起床後か、食前か、食後か
一般的にはいつでもいいらしい。
私はいつがいいんだ
ブーたれつつ、探索中。

カプセルガチャガチャを眺めながら思いついた。
前記事で触れた統合失調症について。
防衛機制のガチャガチャがあるとする。
前記事の、泣く
→ 原因解消
→ 満足
→ 笑顔の共有
のこと、
相応しい場面で相応しく出るようになるはずの感情の反応が、
環境の変化があるたびに、ガチャガチャのようにカプセルが、ランダムに、適当に出てくるということなのでは
と思った。
近くの人たちのエピソード、テレビで見る有名人のエピソード、季節の変化、自身の変化etcetc
一つ一つに相応しく、笑ったり、泣いたり、共感したり、怒ったり、があるはずが、
ガチャガチャのカプセルでとんでもない物ばっかりしか出てこない、ということなのだろうか。
本来は、危険が迫った時に自己防衛するために、ノルアドレナリンが出たり、防御、応戦、退避をする反応が、
人間の身体には出る。
そういう物騒なカプセルばっかりが入っていると言うことでいいのだろうか
合っているんだろうか
適応的に『良く』なり過ぎると、当人にとって非常に負荷が掛かり、予後が良くない苦痛が掛かる、らしい文も記憶している。
立ち読みする前からも、非常に不思議だった。
『良く』なり過ぎたらいけないって、なに


ガチャガチャカプセルが勝手にバカバカ開くのに、日常的にそれを使えない、という意味であるなら、辻褄が合うかもしれない気がしないでもない。
そして、勘が鋭い人から、「あなたは嘘を付きながら人に接しているように見える。目障りで失礼だから改善してください。」と指摘されてさらに傷つく、社会的な不便が出てくるとか。
それなら野良レモンにも想像できなくも無い。だからって極端な主従関係を受け付けるはずがありませんけどね。極端な主従関係という麻薬、脅迫や命令、生産性が保証されないのに強制的に誘導されるコミュニケーションなどは全部麻薬です。使いませんよ。
薬って、どう効くんだろう。
このガチャガチャをどうするんだろうか
カプセルを取り出して、中身の感情的な反応を出して、並べて、種類を見られる状態にして、意識的に読み取って選べるようにするということなのだろうか

たとえ何ヵ所もの……たとえば10ヵ所の”居場所”で癒されても、
次に目新しい場所を見つけたら、そこでも癒されたくてたまらなくなって、
チヤホヤしてくれなければ攻撃性すらも出てしまう、
もしそんなパターンになっていたら、それは『依存』状態に陥っているんだとしか言えない。
だから私は”癒され場所”、”居場所”をあまり探さなくなってしまった。
疲れた。若い時は違う気持ちもあったけど。
食べられる場所と、情報をもらえる場所は、求めるけれど、
一般の普通の人とは”癒”され方が違うんじゃないだろうかと考えたからだ。
だから、その違いを具体的に把握できたなら、
商売してひと儲けすることは出来るかもしれないけれど、そんなの野良レモンに把握できるわけが無い。
したとしても、イカサマになりそうだから、そんなよろしくないもの、出来ない。
10年以上前、むかしのネットの軽度当事者お仲間のみなさまたちが、”癒し”で盛り上がったブームがあった。
なんだか自己完結じみて、
自己努力で抱えきれない機能不全を持たされている私たちなのに、
一般の普通の人たちに褒められるわけでもない、ねぎらわれるわけでもないのに、
気分で引き受けて、自己解決して、面倒くさいことを忘れようとしているかのような気配を感じて、
私はいまいちブームに乗り切れなかった。
たしかに私たちは余分に疲れる。そして疲れは取れづらい。
それでも、社会が社会だからと、過剰な我慢をして働き続けている軽度当事者はいる。
むかしも今もいる。
たとえば、軽度発達障害を持ちながら、糖尿病の透析のような過酷な治療もしながら勤務する人もいるかもしれない。
いくら面倒くさがりでも、これはさぼれない。
怠慢でもなんでも無い。私たちのキャパシティ不足は、文章上では笑って使う冗談にされることもよくあるが、
命が掛かってしまえば笑えなくなる。
だからって、リアルの現実の場でも、ネットの対話の場でも、なんだか難しそうだから相手にしないのか
疎外するのか
対話の輪から外すのか
人恋しくて、対話を求めているかもしれないじゃないか。
高次脳機能障害の軽いものは
軽い脳の病気から回復したら、就労可能なハンディが残る場合があるそうだ。
軽いガンは
生き延びれるとはいえ、抗がん剤を飲みながら、働き続ける場合はあるかもしれない。
野良レモンも未来にこうなる可能性は考えることがある。
ただでさえ感覚刺激で過剰に疲れやすく、人の話しや場の状況を順を追って掌握する作業に時間が掛かり、片手間には不可能なほど複雑に感じる。ストレス症状を受けやすい特性。
その上にさぼれない抗がん剤治療とか、放射線治療とか、出てきたら、情報を処理し切れるだろうか
しかし、どこかには、これに忍耐している当事者がいる。たぶんいる。
しかし、どこかにいる当事者が、後から高齢になって行く野良レモンたちが、テキストに出来るような、
合理的な我慢
の仕方や、怒り
の分かち合い、をしてくれるのか、というと、全然そんな気配を感じない。
情報も無い。
ただ、「今、現在でも忍耐している人がどこかにいる。」という、
見習って同じように忍耐しなければならなく感じる、プレッシャーにだけ、果てしなく使われる。
さらには、忍耐しないことを恥じ入る、敗北者として自覚するような世間一般からの命令まで感じる。
そういうつもりで働き続けているの
そうなの
軽度当事者としてのケア、病気治療に、一般よりも敏感に苦しむ特性へのケア、が、どこからも出て来ないから、
諦めているんじゃないの
諦めるのが答えなの
解説してくれなきゃ分からない。
それは違うって、20年前から、本などで意識が広められてきたんじゃないの
私たちは自分で自分を虐待する義務なんて無い。
広まった意識に、社会の認知が追い付かない現状、これを放置していいの
求めて求めて求めて求めたことが無視された時、怒り
って、湧くのが自然だと考える。
怒り
をどうするの
そこらへんの教えを請いたいの。
福祉作業所の就労がちょうど良くフィットして完結するスペクトラムの人たちを、なだめるかのような言葉を探しているんじゃない。
私の怒り
は肯定されるの
私の怒りは共感される価値があるの
共有されるの
言いようが無くて考え込むお医者も、
逃げ出すネットの人たちも、幼児返りも、ケンカ依存のネットの人たちも、
私がした質問を丸投げして返してくる人たちも極端な人たちもうたくさんなの

私が極端な人たちに合わせてコミュニケーションしなきゃならなくなる
私もサービスを受けたい側なの
私に教えたいことを耳を揃えて用意してくれるティーチャーを用意しなさいと言っているの


自家中毒、という言葉、ものごころ付いた頃から耳に入ってた。
なんとなく、自我が強すぎて胃腸に症状をきたす、みたいな意味で、むかしの昭和から使われていた。
ふと、検索してみた。
全然違うじゃん
なんか医学的な根拠のある、子どもの消化器系疾患じゃん
ああヤバいヤバい。言葉を知らないまま、目上の人たちのいる場で使ってなくて良かった。

自分の半生の、むかしからのトラブルの収束の仕方を思い返していた。
権力で押さえつけられたり、働く場、などお金と引き換えにすること以外では、
関係性の時計の針を元に戻す勢いで、お相手側であれ、自分側であれ、会話の上で、エラーが起こった事実そのものが無くなるまで粘らないと、私は承知できない例はあったと認識している。
ただ、そんなプライベートなトラブル自体は非常に、雀の涙と言っていいほど少なかった。
私相手に、私生活でそこまで土足で踏み込んでくる人間の登場しない、環境で生きてきたんだと思う。
始まる前から成功と合格の約束されたコミュニケーション、じゃないと受け付けられないスペクトラムがいるASDは、
私のように、自動的に、身の回りの環境を調節してしまう。
そうしないと生きて行けないからだ。
その結果、経験不足で、同業者以外の人との雑談、心の開き方、交渉、などが、かなり出来ないまま歳を取ってしまう。
そのことに気づいて、ネットで謙遜すると、『レモンむしぱん(過去のハンドルネーム)は自分の身の程を考えようとしているから、殴られても謙虚に許してあげる、ターゲットになろうと努力するんだよね

つまりは、リアルの現実で通用するまで向上したいのに、結局、向上できない。
私は、『合う人たち全員に良く思われ、好感を持たれる』まで努力しないと恐ろしい強迫観念から、まだ解放されない。
20年前、「発達障害者の社会適応は、普通の人の倍努力をして遅れを取り戻さないと許されない」という、
プレッシャーを掛けられたと私が認識する指導が、横行していて、それを心から素直に聞き、ガッついた。
記憶はまだまだ消えない。
会う人、会う人、全員に「はい」「はい」「はい」「はい」言いたい。
可愛く言いたい。
陰でも良く噂されたい。
食事にもお茶にも誘われたい。
分からないことを聞けなくなるから。分かるまで教えてもらえなくなるから。許されなくなるから。解雇に追い込まれるから。
繰り返し書いてきたよね。
自意識過剰の症状じゃないんだ。
私たちの不便が解消される手立てが、国のどこからも示されないどころか、リタリン騒動とコンサータで振り回して、
国が私たちを『いない者』扱いという仕打ちまでして、生存を無視した。
生かされなくなる恐怖。無視される恐怖。
忘れられない。
だからいい子になりたい。人に良く思われたい。不可能なのに。でも、目指さないと、生きて行けない。
生かされなくなる恐怖。無視される恐怖。
ASDの中には、始まる前から成功と合格の約束されたコミュニケーション、じゃないと受け付けられないスペクトラムがいるのにね。
自分を、曲げさせられる社会。
いびつに曲げられたまま、無視され、放置される社会。

合法的な擬態。
偽善とも、騙しとも言われないで、でも健全で適応的な可愛い

で、恨まれないで、恨まないで、合法的に
こんな親から反対されそうなブログも書かないで
どこか当事者会でマウント取ることも無く
嗜癖依存も駄目なものは駄目だから。
やっぱり人が私の手を引いてくれて、お願い




受け身で待ってても持ち掛けられる
ドヤって上から目線で話せる定期的な場
そんなのが無いと、全国で、私たちの文句は静まらない。

やんわりネタバレ、でもないかな。
アナとオラフのあの多弁はもはや芸だ。
笑いが取れる芸だ。
多弁特性付きADHDの世界の認知が早く進むと、嬉しいわねぇ~。
エルサの冒険が、見ているだけで、物理的に痛そうなことばっかりやってて。
決して顰蹙(ひんしゅく)という意味のイタさではないよ。
痛覚どうかしてるんですかと言いたくなる痛いことしてて。
びしょ濡れの身体で氷の板の上歩いちゃ駄目なんだよ本当は。
濡れた水分が氷に接して、そこから凍って、人間の皮膚ごと持っていかれる危険があるんだよ。
どこで乾かしたの。ていうかそもそもエルサ、服も身体も乾かす気無いでしょ。急いでて。
姉妹の身体能力はものすごい。
突っ込みどころはたぶんたくさんあって、
ググったらたくさんの人が書いているだろうから、私が張り切って書くことじゃないな。
冬に温泉

滑って転ぶ前に、手すりにつかまりたいのは当然だけど、つかまる前に手すりをよく観察してね。
もし金属の手すりだったら、爪の先でツンツンして、貼り付きそうなら触らない。
露天風呂までの床が濡れて凍っていたら、滑って転ぶ危険がある。さような場所でのスタイルは、当然、あられも無い格好でだ。やめるという選択肢もある。
そこを見越して、なんかザラザラした特殊素材を入れた床や、ゴムでフカフカした手すりにしている温泉もある。
そういう温泉なら、露天風呂で雪見もいいんじゃないかと。

で、思い出したんだけどさ、アル中の議員さん、忘れていたけど、またやらかしたらしい。
勝手に身を滅ぼしている分にはなにも言わないけれど、我が国の可愛い




いっそ竹島にアウトドアグッズ一式持って、住んでくれればいいのに。
本当に準備して行動したら、三億円

お酒飲んでクダ巻いても、自由なんだ。
そのまま防寒しないで寝たら駄目だけど。
エルサなんて国のため、人々のために、なんだか遠い島まで自力で………………
アル中は身を亡ぼすね。
治す意志があるのか、それとも病識がまだ無くて、高をくくってて、この事態をナメて掛かって、意志が無いのか、どっちか分からない。
でも時代が違えば一族処刑ものだよ……

体重計の針は動かないんだけど、体感が、ますますぽっちゃり

そして今年、まだ乾燥肌のかゆみがあまり無い

やったぁ

肌にね、脂肪分が不足するとかゆくなる説があるんだって。
あまりかゆくないってことは……
……
……
やっぱり悲ちいよ……
身体のあちこちの管が詰まってきてる気がする。
油断するとむくみが来る。油断してなくても来る。
久しぶりに吹き出物が出来た。
筋肉が突りそうになる。筋肉の電気やミネラルのバランスが良くない時に起こるという。
血管はまだまだ大丈夫よー

だからって、後は、どうしろと。
カロリーが使われないで滞ったままポチャるのを待てと

ひどいわぁ

野良レモンが酵素を飲んだら、胃に痛みが来る現象が浮上した………
でも調べると、胃の痛みは関係ない説ばっかりだった。
酵素関係なく、胃が痛んでいる可能性も浮上した。
で、よく立ち寄る定食屋さんで、トンカツ定食にしてキャベツの山盛りを食べた。
その日の夜は気持ち良く、落ち着くこと落ち着くこと。
で、
私は酵素サプリメントはいつ飲むんだ

寝る前か、起床後か、食前か、食後か

一般的にはいつでもいいらしい。
私はいつがいいんだ
ブーたれつつ、探索中。

カプセルガチャガチャを眺めながら思いついた。
前記事で触れた統合失調症について。
防衛機制のガチャガチャがあるとする。
前記事の、泣く




のこと、
相応しい場面で相応しく出るようになるはずの感情の反応が、
環境の変化があるたびに、ガチャガチャのようにカプセルが、ランダムに、適当に出てくるということなのでは

近くの人たちのエピソード、テレビで見る有名人のエピソード、季節の変化、自身の変化etcetc
一つ一つに相応しく、笑ったり、泣いたり、共感したり、怒ったり、があるはずが、
ガチャガチャのカプセルでとんでもない物ばっかりしか出てこない、ということなのだろうか。
本来は、危険が迫った時に自己防衛するために、ノルアドレナリンが出たり、防御、応戦、退避をする反応が、
人間の身体には出る。
そういう物騒なカプセルばっかりが入っていると言うことでいいのだろうか

合っているんだろうか

適応的に『良く』なり過ぎると、当人にとって非常に負荷が掛かり、予後が良くない苦痛が掛かる、らしい文も記憶している。
立ち読みする前からも、非常に不思議だった。
『良く』なり過ぎたらいけないって、なに



ガチャガチャカプセルが勝手にバカバカ開くのに、日常的にそれを使えない、という意味であるなら、辻褄が合うかもしれない気がしないでもない。
そして、勘が鋭い人から、「あなたは嘘を付きながら人に接しているように見える。目障りで失礼だから改善してください。」と指摘されてさらに傷つく、社会的な不便が出てくるとか。
それなら野良レモンにも想像できなくも無い。だからって極端な主従関係を受け付けるはずがありませんけどね。極端な主従関係という麻薬、脅迫や命令、生産性が保証されないのに強制的に誘導されるコミュニケーションなどは全部麻薬です。使いませんよ。
薬って、どう効くんだろう。
このガチャガチャをどうするんだろうか

カプセルを取り出して、中身の感情的な反応を出して、並べて、種類を見られる状態にして、意識的に読み取って選べるようにするということなのだろうか


たとえ何ヵ所もの……たとえば10ヵ所の”居場所”で癒されても、
次に目新しい場所を見つけたら、そこでも癒されたくてたまらなくなって、
チヤホヤしてくれなければ攻撃性すらも出てしまう、
もしそんなパターンになっていたら、それは『依存』状態に陥っているんだとしか言えない。
だから私は”癒され場所”、”居場所”をあまり探さなくなってしまった。
疲れた。若い時は違う気持ちもあったけど。
食べられる場所と、情報をもらえる場所は、求めるけれど、
一般の普通の人とは”癒”され方が違うんじゃないだろうかと考えたからだ。
だから、その違いを具体的に把握できたなら、
商売してひと儲けすることは出来るかもしれないけれど、そんなの野良レモンに把握できるわけが無い。
したとしても、イカサマになりそうだから、そんなよろしくないもの、出来ない。
10年以上前、むかしのネットの軽度当事者お仲間のみなさまたちが、”癒し”で盛り上がったブームがあった。
なんだか自己完結じみて、
自己努力で抱えきれない機能不全を持たされている私たちなのに、
一般の普通の人たちに褒められるわけでもない、ねぎらわれるわけでもないのに、
気分で引き受けて、自己解決して、面倒くさいことを忘れようとしているかのような気配を感じて、
私はいまいちブームに乗り切れなかった。
たしかに私たちは余分に疲れる。そして疲れは取れづらい。
それでも、社会が社会だからと、過剰な我慢をして働き続けている軽度当事者はいる。
むかしも今もいる。
たとえば、軽度発達障害を持ちながら、糖尿病の透析のような過酷な治療もしながら勤務する人もいるかもしれない。
いくら面倒くさがりでも、これはさぼれない。
怠慢でもなんでも無い。私たちのキャパシティ不足は、文章上では笑って使う冗談にされることもよくあるが、
命が掛かってしまえば笑えなくなる。
だからって、リアルの現実の場でも、ネットの対話の場でも、なんだか難しそうだから相手にしないのか

疎外するのか

対話の輪から外すのか

人恋しくて、対話を求めているかもしれないじゃないか。
高次脳機能障害の軽いものは
軽い脳の病気から回復したら、就労可能なハンディが残る場合があるそうだ。
軽いガンは

生き延びれるとはいえ、抗がん剤を飲みながら、働き続ける場合はあるかもしれない。
野良レモンも未来にこうなる可能性は考えることがある。
ただでさえ感覚刺激で過剰に疲れやすく、人の話しや場の状況を順を追って掌握する作業に時間が掛かり、片手間には不可能なほど複雑に感じる。ストレス症状を受けやすい特性。
その上にさぼれない抗がん剤治療とか、放射線治療とか、出てきたら、情報を処理し切れるだろうか
しかし、どこかには、これに忍耐している当事者がいる。たぶんいる。
しかし、どこかにいる当事者が、後から高齢になって行く野良レモンたちが、テキストに出来るような、
合理的な我慢


情報も無い。
ただ、「今、現在でも忍耐している人がどこかにいる。」という、
見習って同じように忍耐しなければならなく感じる、プレッシャーにだけ、果てしなく使われる。
さらには、忍耐しないことを恥じ入る、敗北者として自覚するような世間一般からの命令まで感じる。
そういうつもりで働き続けているの

そうなの

軽度当事者としてのケア、病気治療に、一般よりも敏感に苦しむ特性へのケア、が、どこからも出て来ないから、
諦めているんじゃないの

諦めるのが答えなの

それは違うって、20年前から、本などで意識が広められてきたんじゃないの

私たちは自分で自分を虐待する義務なんて無い。
広まった意識に、社会の認知が追い付かない現状、これを放置していいの

求めて求めて求めて求めたことが無視された時、怒り

怒り


そこらへんの教えを請いたいの。
福祉作業所の就労がちょうど良くフィットして完結するスペクトラムの人たちを、なだめるかのような言葉を探しているんじゃない。
私の怒り


私の怒りは共感される価値があるの


言いようが無くて考え込むお医者も、
逃げ出すネットの人たちも、幼児返りも、ケンカ依存のネットの人たちも、
私がした質問を丸投げして返してくる人たちも極端な人たちもうたくさんなの


私が極端な人たちに合わせてコミュニケーションしなきゃならなくなる

私もサービスを受けたい側なの

私に教えたいことを耳を揃えて用意してくれるティーチャーを用意しなさいと言っているの


