私たちの努力そして一般の普通の人たちの用心 その1

リアルの就労の場で、心因症が出た人間に優しくするのはとても大事だ。

全国でこれができなければ、国力としても当然、衰退していくと思う。

しかし、国内の多くのノイローゼ労働者が、体を壊してからやっと配慮を受けられたり、話し合いに応じてもらえたり、

だ け 、するのが、私はいかがなものかと思う。

体を壊すその前に、なにか察し忘れていることは無いか、普段日常から悪気無く使っている業務連絡の言葉遣いに、

追い詰め、や、プレッシャー、や、自己否定を想起させることは入っていないか、

組織の一般の普通の人たちが、トラブルの無い平穏な時から気にする……。

できないのかな。

できないんだろうな。

一般の普通の人たちの、平均的な気力とか余力とか、そういうものが追い付かないんだろうな。

しかし、もしできたら、ノイローゼ起こして戦力外になっていく人を出すことは、予防できるのではないのだろうか。



否定感を想起する疑いのある言葉が存在して、それが、現場の業務連絡で、必要性のあるものであれば、

雑談の時にでも使った意味を説明するとか。

そうすることでなにを招くのかと言うと、

“構ってちゃん”の一時的な満足、では決して無くて、

潜在的な心因症予備軍たちの、組織内での業務連絡の理解力と、自己処理力、推察力の、底上げになるのではないだろうか。

野良レモンは、これを、ネットや、むかし軽度当事者たちとお会いできた場所で、自分で不足感を感じたから、言語化の増量を求めてきた。

まだ不足で不満だけど。


潜在的なノイローゼ予備軍の人たちが体を壊したときに、だ け びっくりして優しくしてばっかりいるから、

『具合悪くなるのを待ってるのかな。具合悪くならないと察してくれないのかな。』と、脳よりも体が先に考えてしまうのではないかと思うことがある。

今までの人生で拝見してきた中には、

たとえば具体的な病気の診断書なども無いまま、欠勤が異様に増えるとか、いよいよ全体が危険を感知する弱り方になった人たちの中にも、

理解力や業務の構築力?を周囲が一生懸命、言葉を選びながら底上げしてあげようとしても、

受け付けない人、もいた。

実態の自分、じゃなくてプライドが、想像上の場所にしか住んでいない。みんなより斜め上に位置取ってる、リア充ワールドの中にしか住んでいないので、そういう人たちが使う言語しか受け付けたくないらしい。

リアルの現実は、フェイスブックじゃあ、ない。インスタグラムじゃあ、ない。

周囲は疲れてくる。じゃあだれのせいだ、親のせいか、という雑談になっていく。


野良レモンも、発達障害の言葉もまだ知らない頃、合わない薬を無理やり飲み続けていて、起きられない時期があった。二十年近く前になる。

周囲も、自分も、自分をどうしていいかわからなかった。お医者は「薬は飲みなさい。十分休みなさい。」を繰り返した。親は私の自宅が異常に片付かないため、心配して見に来たがった。叱咤激励すればいいのか、手伝えばいいのか戸惑った。私はどっちもひどく嫌だった。

わからなかった。

私の親も悩んだ。「育て方が悪かったのかな。」

思い出すたびに、私はそのどうしようもなさに今でも頭を抱える。

……

虐待してない限り、親の責任を問うのは違うと思う。時代的に、ただ、戸惑っていただけではないだろうか。

昭和の、国の高度成長期に煽られながら、寿命を吸い取られるように、働いて、黙々と教育費を稼いできただけではないのだろうか。

そんなケースは、これからは減らしたい。


私の親だって、もし私が発達障害を知る前に、解雇されたり、ドロップアウトして、社会に復帰できなかったら、

こんな不名誉な思いをする高齢の親になったはずだ。

今だって、私は首の皮一枚でつながっているとも言えるかもしれない。


多くの子供たちが、名誉を傷つけられることの無い配慮を受けながら、検査を受ける機会を保障してほしい。

面目を傷つけられることなく、豊富な選択肢から選んで、支援を受けられる体制になって欲しい。

プラケーターや、イネイブラーに丸投げして、優しく過干渉させて、(わたしは具合悪いだけなんだな。本当は優秀だけど才能が出せないぐらい具合悪いだけなんだな。そんなわたしを認めない周囲が意地悪なんだな。)などと子供当事者や若い繊細な労働者たちを、逃避思考に囚われさせてしまうことは、避けて。

そして大きくなり、繊細な個性を持つ労働者が、参ってしまう前に、日々、なあなあで済ませていること、言語化が面倒そうなことはスルーして済ませていることを、

飲酒は抜きで、シラフで時々語って欲しい。

カウンセリングの作業なら、本人から聞き出して終わり、になるが、そこまで病む前なら、特に話したいことも溜まらない。私生活の息抜きで、本人が流せているうちに、周囲の一般の普通の人たちが、手を打ってほしいのだ。

語って欲しいのだ。シラフで。

これが、野良レモンを含む、潜在的な戦力外を、本当に戦力外にしないために、一般の普通の人たちが、用心してほしいと願うことなのだ。