『人見知り』人生初めての”人を嫌う”反応

インフルエンザの対処本を読み直していた。

書かれた時代は10年ぐらいむかしだった。

そういえば当時は、新型インフルエンザの流行で、生活物資の流通がストップすることが本気で心配されていた。

でもストップしなかった。これ一つとっても素晴らしい平和な国だよ。

労働者が黙々と運転し続ける。黙々と、でもにこやかに売り続ける。ありがとうだよね。

今でこそ、こんな他愛のないつぶやきも、返事を期待しないでさらさら書けているが、

もっとむかしむかしには、返事で私という人間が書く文を承認してもらうことに情熱を賭け、

思考力とアドレナリンをフル回転させていたものだ。


インターネットが使える軽度当事者の一部が、関係の欲求をこじらせて

「嫌い嫌い嫌い仲間嫌い思想嫌いリアル嫌い社会嫌いテレビ嫌い音楽嫌いアイドル嫌いアニメ嫌い美男美女嫌いお笑い嫌い美食嫌いサッカー嫌い観光地嫌いその意見嫌いこういう言い方嫌いああいう嫌味嫌い偉そうな態度嫌いいい人ぶりっ子さがわざとらしくて嫌いなに考えてるか隠している感じが性格悪そうで嫌い遠回しになにか言いたそうで思わせぶりで嫌い

……みんなみんなみんな嫌いだけどわたしを可哀想にって心配してな、

どこの軽度当事者のネットコミニュティにもいそうな、人たちがいた。

たいていのコミニュティは、はこういう人たちの面倒を見切れなくなって、『常連』の人たちから、

フォームへの書き込みをやめて遠ざかっていく、そうしてコミニュティは過疎化して、

放置されて、自然消滅していく。

そんなプロセスを、何例か思い返していた。



こういう人たちは、「嫌い」って言わずにいられないんだ。

「嫌い」に限らず、軽度当事者の中には、認知力の狭さから、多彩な表現力や伝達力を身に着けられず、

特定の表現をあらゆる事態に使ってしまったり、ボキャブラリーが狭くこだわられてしまうことは、よくあるのではないかと想像する。

それでは、嫌うがあったら好きになる、認める、が相反してあってよいはず。

なになら認められるのか。受け入れて好きになれるのか。



まず乳幼児は、当然だけど、”ミルクくれる人。”(母乳か人工ミルクかは今でも論争になるの知ってる。でも人工ミルクとまっとうな環境で育った人がすこぶる問題なく、平凡で普通なのも知ってる。)三か月で覚える、ナントカナントカ愛着関係、というやつですね。

少年少女は、違ってくるんです。仲間が、欲しくなる。

しかも、他人の中から同調し合える人、ノリが一緒の人が欲しくなるんです。

ASDスペクトラムの欲しい共感相手は、そいじゃそこらにはいないわけですね。

野良レモンも含めて、ASDスペクトラムが、同類を欲しがることからして、間違っちゃったんですよ。

しかし、欲しがらないなら欲しがらないで、それはまたそれで、発達として間違いなんです。

人間の発達として、間違いなんです。そこも病気の元になる。

すぐ近くに、パズルのピースが無くて、許容範囲が狭くて、とりあえずのつなぎの間に合わせ、が通用しなくても。

人間的にも間違い、ASD的にも間違いで、どうしよう、どうしよう、とネットに書き込んだとしても、

ADHD当事者は衝動的に同情して飛び付いてくるけれど複雑だったら反射的に逃げていくし、

二次障害重くて精神疾患が慢性化していたら複雑さが受け止め切れなくて逆切れ反動で共依存相手として理想化を迫る一方で、現状の当事者自身のことは見たくないし、

他人を鏡にして自身の姿を映して見る自己確認ナルシス作業で24時間忙しくていつまで待っても見てくれないし、

一般の普通の人たちからも、軽度ASD当事者からも、裏切り者のように責められて。

でも、責められたって責任取れないままですよ。

取り方知らないもの。


そもそもその責任てなあに、理想的な生き方して見苦しくないうらやましくないずるくない善良に見えて合理的に見えて納得できるイイネできる生き方ですよ、そんな理想像をかなえる実行方法がどこにあるか!

それを聞きにネットに来てるんだよ!早く教えなさいよ

そして、大人になったら、いや、なりかけたら、

今度は異性も求めるものなんですよね。
(野良レモンは文化と情報のある場所で知的生物として育って良かったですよ。文化的発展をしていない土地で野生色強く育ってしまったら、なんも判断できなくて、考える基礎が無くて、詐欺や搾取をされたかもしれません。)

外へ、外へ、求めが広がることそのものが、もう無理がある。

生き物の宿命と言うかなんというか、生き物の発達に、人を嫌うこと、は通過点としてですが、

組み込まれてしまっている。

完全に予防する方法はないかって、考えた頃もあったけど、原点はそこだから、

防ぎようがないんですよね。


二次障害を100パーセント防ぐ方法は無いようなもので、

だから限られた環境を作って、知識を身に着けた専門の人間を配置して、世界中の特別支援の機関が

ベスト、いや個人個人の対人能力、集団適応力の限界近くまでの出し方を研究し続けているんですよ。




ネットのコラムで見た一説。

かの時の人の親方さんは、自他ともに厳しく接する意識がすんごく強い性格しているそうな。

巡業先でもホテルから出ない。で、地域の協力者たちも、ヤンチャしたい力士さんたちも、出づらくて圧を感じる。

“率先して自分からする。”これが求められる人。つまりお手本を見せる人とは。

親方さんは、教育者向きなんだと思う。

しかも信念が強くて、外からの横やりにも動じない、ブレないタイプなんだろうと思う。

本物の教育界の現場なら、こういう頭の固めの教師でも、教師が正論に沿って教育するのは当たり前すぎることなので、

外へはそんなエピソードは流れてこない。せいぜい子供たちが不満をぼやくぐらいだ。

教職免許は取らなくていいから、大学の聴講生かなにかになって、もっと学問を学んだらいいのではないか。

せっかくの信念の生き方なのに、周囲に好意的に思われない。

“部屋”が孤立してしまう。

でも古い因習に凝り固まって、一方ではモンゴル力士さんたちが自由に個性を出し過ぎている今の角界に、適応しすぎるのも嫌?

だから、対抗するのはもっと広い社会から得た知識とか、社会性しかないんじゃないのかな?

警察を使って、指示を仰いだように。

今でも角界に通ずる知識は十分持っていて、親方さん自身が講師や教授をやれるくらいはあるんだと思う。

でも、なんかそれだと風向きが悪くなりがちである。

たぶんそれでいいんだろうけど。我が道に悔い無しなんだろうけど。

信念を伝えるための技術とか、言葉の選び方とか、先人のやり方とか、

そんな”肉付け”がされたら、もっと味方を増やす道が開けるんじゃないかと思うけど。

それに、教職の学問はきっと、合うと思う。好きになれて勉強しやすい分野じゃないかと思う。

でも学校の現場にまでは行かなくていい気がする。

現場は現場で、納得いかないことが多々あるような気がする。

きっとストレスになる。

教員免許も取らなくていい。もう年齢制限的に無理かもしれないけれど。

きっとすごく頭がいいんだろうから、なにかこう、合理的に適応できる場所で、世のため人のために実力発揮できるといいんだけど………。