受動の人生

『あなたは一方的に私を肯定してくれる?くれない?こちらのあなたは一方的に私を肯定してくれる?くれない?私は正当?違う?一方的に私を正当化してくれる?くれない?こちらのあなたはしてくれる?こちらのあなたは?あなたは?あなたは?あなたは?』



口に出して聞きもせず、口を閉じ、視線も逸らし背中を向けながら、

確認したい欲求の所持も自覚せず、

無言でテレパシーが通じて察してもらえることを待ち続ける、

自分に一方的なキャラ付けがされることを待ち続ける、

そして待ち続けていたことすら忘れていく

忘れながら、聞き流し続けながら、従いながら、また忘れ続け、察しを待ち続けていく人生。



当たり前に息をするように、食べるように、眠るように、風邪を治すように、

忘れながら、聞き流し続けながら、従いながら、また忘れ続け、察しを待ち続けていく人生。



親を含め、生きながら出会う人、出会う人、出会う人に

忘れながら、聞き流し続けながら、従いながら、また忘れ続け、察しを待ち続けていく人生。



本来はこんなのが無理しない、自分に負荷を掛けない

自然でありのままの、野良レモンたち受動型の生態
である。

教育を受けず野放しで、本能丸出しにすると、こうなる生き物であるのが私たちである。

野良レモンからも、衝動性や不注意とか言語化欲求とか、不純物を少々取り除けば本当はこうなる


しかし、世の中はまだ、私たちから“無理”を遠ざけさせながら、安全に餓えること無く生きながらえさせてくれる仕組みにはなっていない。

無理をやめる私たちを、世の中は生きながらえさせてはくれない。

私たちに、“無理”をしない人権は、無い。



私たち本来の生態は、背中を向けて黙りながら不貞腐れ、背中を向けて黙りながら喜び、

背中を向けて黙りながら怒り、背中を向けて黙りながら悲しみ、愛しもする。

たとえ背中を向けて黙りながらでも、疲れもする。だから多くを忘れて生きる。

ものすごく面倒くさい。



教育を受けることで、仕方なく、自分の身の安全を私たちは手に入れる。

“無理”と引き換えに、衣食住と身の安全を手に入れている。




IQの分布グラフの山の中でも、そんなに多数派で無い方の坂の中に属する学力の当事者で、

教育と支援に恵まれなかった一部が安易に陥りがちな例として

異性の言うことをずっと聞いてしまう

暴力的であれ人間関係維持作業の能力不足であれ、“指示”を常時一方的にしてくれる役の人間に

ついて歩いて、利用されて生きるタイプがたまにいる。

印鑑も身体も自分で守る、セキュリティーが機能しない。

人が支配してくれるものだったら、どうでもいいなんでもいいから従ってしまう。

他人を増長させる天才であり、

個人の境界線や尊厳の保障、自立する人権が当たり前に機能している平和な民主主義社会の、被害者。

自分で価値観に基づいて選んだ結果ではない。“指示”には惹かれてしまい、

こういうタイプは『お手』だろうが『待て』『三べん回ってワン』だろうがなんでも操られてしまうのではないかと、

野良レモンは勝手な分析をしている。

倫理と護身は、外の人間が教え込まなければならない。

衣食住を管理する生活力と同じくらい、必修科目にしなければならないのではないか。

守るという概念が、分からない。価値観に組み込まれていない。



支配されるって、たしかに楽。

一般的には、自分が損害を受けないように、支配を一部避けたり、無難に言い逃れてみたり、交渉したり、

頭を使って考えて、自分の服従度合いを調整しなければならない。

しかしなにをどこまで調整すれば合格なのか、損害は避けられるのか、支配者を増長させずに済むのか、

そんな難しいことは、ASDにとっては抱えきれない謎なのである。


調整する中で、もしも孤立したら。見捨てられたら。

一貫性が崩れてしまう。

周囲のルールが変更されるという、ASDにはもう対処できない事態になる危険がある。

孤立や見捨てを、あってはならないこととして、一番に防ぐ、そして支配者に依存する。

脳のキャパを節約して守れる。使い過ぎで虚脱する危険から守れるし、過集中ですり減ることからも、

過集中の成果が評価されなかった想定外事態の対処も、責任取ったりすることも、

面倒くさいことをしなくて済むんだ。

しかしその過程でも、危険な罠は待ち受けている。

一部の受動当事者は、虫の知らせも危険センサーも感知しない。

そんな複雑で難しい機能は、持ち合わせていないのだ。



野良レモンは少々違う。

「はい」と指示に従うのは、関係者全員に“良く思われる”そして業務連絡を教えてもらう、

そして最終目的は、野良レモンがちゃんと業務をするため。

勤め人をやってサラリーをもらうため。

目的は依存じゃない。自己顕示でも虚栄心でも無い。私の生存だ。だからどこの馬の骨か分からない生き物には初めから近寄らない。



「なぜ生存を目的に決めるんだ。野良レモンの生存に価値をつける価値観なんて認めない。」という

あの掲示板の一部の参加者は主観的な意見を持っていて野良レモンの見えていないところで今でもメールで確認しあっている。



しかしそれなりの先進国で生存している人間は、生存する既得権を持ってしまっているのであり、

生存する権利を自分に認めないことは、“人の道”に反する。


あとから育ってくる年若い世代に、反抗的な見本や前例は残したくは無い。

支援を受けながら主観的に感じたり、認知したり、自分の感想を持ったりしつつ

見聞を広げて教養も付けながら、客観的視点も、地球的なものの見方も訓練することで、

当事者と、一般の普通の人たちとの、感情的な衝突を最小限に抑えながら、

中途診断二次障害野良当事者団を、安全で誠実な人間たちだと世間に浸透させ、

社会参加するための市民権を全国で得られるようにしてほしいのが未来の理想である。



話を戻して、

受動には、倫理と護身は、外の人間が教え込まなければならない。

自分では勝手に自主的になんて学ばない。

『そんなもの学んだら、周りの人たちに「一人でも大丈夫。自立させよう」って思われてしまう』

まるで『罰』を、受けるような恐怖を受動当事者は感じてしまうことがある。

でも違うんだ。

自立は「見捨てられてしまえ」とは違うんだ。そんな解釈、ASD、18番の、極論だ。

自立した罰は、本来、存在しない。



当人が自立しながら、無知ゆえに戸惑ったことは、

自分の判断と自己責任において、知識人に教えを請いやすい環境
、が不足しているんである。

「見捨てられてしまえ」と脅されることでも煽られることでも無く、自閉向けに構造化された環境を、当人の周りに満たさない社会に責任がある。

当人が罰に怯えることとは違うんだ。


それでもどう違うのかは、すぐに受動当事者に理解させるのは難しい。

頭の中のグレー色が、白黒のゼブラ状に分離していったときに、ASDにはやっと話しが伝わる。

それまでは受け身の彼らにくどくどくどくど話と、実践への誘導と評価賞賛を繰り返さなくてはならない。

支援教育側にとっては、もしかするとこんなウザい作業は無いかもしれない。

それこそ教育で教えられなければならない。