雑談、3つ

まだ記事書きますよ

ワクワクイベントで休むのはまだ先の、雪が降った頃の話。

でも、当事者として、「記事書かない。」という言葉が目に入ったら、今すぐなのかなって、頭にインプットされてしまう気持ちも分かります。なんかゴメン。



最近、便利な場所にあったので小さなスパ温浴に行った。

自分の道具、着替え、ほか持たなくてはならない物二つ、持った結果、タオルを忘れた。

その前から、自分の立てた計画に破綻が無いかどうかを、考えを順繰り順繰り循じゅんさせてしつこくぐるぐるさせていた。

決して気を抜いていたつもりではない。

過集中したつもりも無いし、キリキリ殺伐とした自覚も無かった。

まだ眠くなるタイミングではなかったし、初めて踏む手順でも無かった。

若い頃から、世の中のわけが分からないながらも自分探しの旅をコツコツしていた経験はまだ生きている、つもりだった。

だからショックだった。

だから、あがった後は仕方なく、洗濯物にするつもりだったTシャツをバスタオル代わりにして使ってから、用意した着替えをなにくわぬ顔で着てしまった。

ほかのお客さんたちも、自分たちの会話に一生懸命で。醜態を見られていないと信じたい。


次は、ヘアアクセサリーが無くなっていた。

探したさー。

盗まれた可能性は、ある程度社会を知った大人なら考えるだろう。でも、勘だけど、そうではないと思う。

そこですれ違った人たちは、みなさん他人だけど、元気はつらつそうで、心が病んでいそうな人の気配は感じなかった……って言っても、ものすごく根拠は無いよね。野良レモンの勘は、穴の開いたザルのように抜けていくので当てにはならないね。

惜しくは、無い。三個セットで100円くらいのだったうちの、一つだ。

ショックなのは、せっかく気を張っても張っても、自分の神経が、一時的にボロボロになっている気配を感じたからだ。

こういう時に、対処不可能な決定的な災難に遭ったらどうするんだと、不安になってしまう。


その次は、自分の荷物を預けたコインロッカーを無意識に通り過ぎて一定距離まで離れてしまったことだ。

忘れたわけではないつもりなのに、目的と動きが一致しなかった。

神経系が対応する世界が、予定以上に狭くなってしまったのかもしれない。

自分でさらにショックだった。

時間が空いたときに、大切な荷物は腕に巻き付けて、目を閉じて、眠らないようにして休憩を自分に強制した。

ブチ瞑想。

こんな常識的な計画と行動で、もう神経系の疲労と限界が来るなんて


キッチンのガスコンロの穴の回りを覆うアルミフードを買ったつもりで、ガスコンロ回りを覆って壁を作るレンジパネルを買ってしまった。

こういう時に、一歩も外へ出たくなくなる。

間違う物なんて始めから買いたくなくなる。

でも、火を通して自炊しないと、あらゆる栄養素は足りなくなる。

もやしや雑草で生き延びられる、若くて貧しいアーティストのような生活を、軽度当事者のオバサンがしてはいけないのだ。


日ごろから軽度当事者のブログを読ませてもらっていて、計画の失敗のエピソードに当たると、ショック状態を思い出して、ソワソワする。

ASDスペクトラム持ちとして、こだわって詳細に立てた計画が破綻する哀しさが、伝わってくるのだ。

ただし、自分の限界や傾向を理解しないで計画を立てて、満足して過信しているらしいエピソードに当たると、じれったくなる。コメントなんて喧嘩しそうな危険なもの書かない。

ブログ会社のアカウントを持つ人しかコメントを受け付けない人もよくお見受けする。みなさんASD族の特性で、したくないご経験をいろいろしていらっしゃるのかもしれませんね。

したくないものはしたくない。だから避ける手立てに全力を出す。

それでも失敗するのが、どれだけ弱ってからするのかの基準線みたいなものが、年々下がっている気がしてならない。

神経系を稼働させて警戒できる世界が狭くなっても、警戒を手伝ってくれる人間が側に付き添ってくれると楽なのは、わたしたちの多くが経験している。

しかし、私たちは人間とは衝突してしまう。どこまでも普通に見えるがために、衝突の前には存在を覚えてももらえずに立ち去られてしまう。

これから歳を取り、人生の冬休みを迎えていく時期なのに、この不便を、どう一般の普通の他人に伝えるか、経験談も、成功談も、見本も、見つからない。

自分で頭をひねって試作品を作って試して、試すよりも、見本を置いてもらってそれを使い倒す方がどれだけ楽なことか。

日常には、働いて休んで生活を回していく、という苦労がまだまだ居座っているのだ。

優雅で遊びのような研究に、かまけてはいられないのに。





『人間失格』ふんわりネタバレ

綺麗だよね。なんというか、にながわさんの映画は、この、目にガツンを期待して、覚悟して、行ってしまう。



リアルの小説を読んだ人たちは、学生から大人まで疑問を持つ。『なにこの自己嫌悪だらけの。』

私の学生時代、読書感想文で校内入賞したものが印刷されて、配布された。それにも載ってた。感想文にするのは難しいだろうに、よく選んだな、と、私は書き手に感心した。

オバサンになって、こうして万華鏡のような、目にガツンとくる色彩の映画の中に再現されて思った。

これ、障害者だわ。

どこの精神障害に分類されるのか、野良レモンは学に通じていないので、分からない。

物心付いたころからなぜか干渉されたエピソードがあったはずだから、人に干渉してもらえる才能がもともとあったようだ。

躁鬱でもなし、統合失調でもなし、自閉にしてはモテ過ぎる、ADHDにしてはちゃんと書きあげる。

でも、身の破綻する行動をやめられない、そして自宅には戻ってきちゃうあたり、

アル中のように、脳を乗っ取られた行為の異常、衝動の異常がある。


現代なら、治療の計画は、立つ。


きれいな設備、カメラも充実した入院環境、さまざまな用途の薬

思考停止させるお医者だけじゃなく、寛解に向かってモチベーションを上げる説得が出来て、適切に使えるお医者も、いるとこにはいるらしい(野良レモンにはネットの向こうの世界にしか思えませんけどね。いいねー)。

医療の発展は、病気にいどみ、病気は降伏に至る事例を増やし、追い上げている。

問題なのは、インターネットの普及で、食える芸術を生み出しもしないのに、病人がいつまでも病気のまま浸っていられる事例が後を絶たないので、

降伏させてもさせても、治療環境が病人の頭数に足りないことだろうか。


すっごい明るく軽く表現されていて、私は小説よりもこっちが好きだが、

実際には、当人は、楽しくなかっただろう。たぶん。

映画のファンタジーじゃなくてリアルの太宰先生は、楽しくは無かっただろう。

それか、楽しいと楽しくないを、常時シーソーしていたか、両方同時進行していて、芸術のために中毒になってやめらんなかったとかそんなところだろうか。

だって依存している嗜癖依存の行動を「やらなきゃ やらなきゃ 」って、欲求に追っかけられるだけの時間が大半てことでしょ。

追っかけられるか、書くか、で生きるんでしょ。やだよ私は。病んだ脳みそのただの奴隷ですよ。

私たちは休ませて、動かして、休ませて、動かして、で、脳の正気を保っている。

アーティストはノイローゼになった。

しかし凡人の私たちは、ノイローゼから逃げる権利はある。権利は使おう。





ネットを読んでいると、親の終末期に対応できないASD当事者がいる。

たぶん野良レモンもそうだ。

軽度だと、福祉の世話にもなれない。

一般の普通の成人として、高額医療の保険のこととか、銀行口座が凍結されないうちに少しずつ降ろすとか、携帯電話の解約の仕方とか、車検をしませんか、自動車保険の更新をしませんか、と電話で聞かれたらこう答えるとか、

そんなことがこなせるかというと、それも出来ない。

お医者に掛かろうにも、まず親の病院へ看病しに通わなければならない。果たして自分の病院に掛かろうと思えるものなのだろうか。

掛かったとして、なにから助けを求める話をすればいいのか。

お医者っていうのは、自分のところで治療可能なメニューがあって、そのメニューどおりの病み方をしていない患者は嫌がるんでしょう
野良レモンはすでにグレてるので、こういう解釈をしている。


周囲の人間たちのテンションが通常時と違うと、つられて不安定になる当事者もいる。

みんながいつも通りの機嫌で、いつも通りの日常で、いつも通りの体調じゃないと、受け付けられなくて、

人生を終わりゆく親、本人、を最優先できない事態が発生するケースもあるらしい。

たぶん乖離したり暴れたりなんだろう。

親が先に逝くのは自然の摂理で、仕方ない。しかしその準備や、対応の仕方が、さっぱり分からない。

なんだかすごくきちっとしなきゃならないらしい、イメージは湧く。野良レモンも湧く。一生懸命しなきゃならないらしい。

なにを


野良レモンの頼りない昔の記憶だが、身内が入院した時と言うのは、病院の食堂で食事を摂ることが増える。車で移動しながらコンビニの食べ物を食べることもある。

なにが起こるか。炭水化物が増えるんである。

太る。礼服を持っていても、入らなくなっている可能性がある。

礼服を買いに行けと。

一日休みを使えと。もしそこでお仕事場の同僚と鉢合わせしたらどうするのよ。疲労困憊で礼服を買って、帰ったらたぶん寝たいだろうに、遊んでショッピングしている誤解をされるかもしれない。

今や野良レモンの身体は一日寝ても足りないぐらい、老けているんだぞ。

たぶん、礼服買うのに一日。親の看病に一日。親から指示をされた保険の書き物や、銀行にお遣いに行ってくるのに一日。

一日使ってはそのまま寝て、でも絶対足りない。

軽度当事者の一日は、ルーティンで組み立てないと、飛び込みの用事を入れながらでは絶対回らない。

無意識では回らない。あらゆる日常動作は、自己嫌悪とか想念の再燃とセットで、過敏さを忍耐させられながらイヤイヤ回っていく。

一般の普通の人たちの想像以上に、非日常の状態への対応は、疲労して、困難を極めるだろう。

あらゆる知らない人たちと会い、いやいや会話をして、なんだか決めさせられて、それを違う人たちにも説明させられ、意見が返ってきて、調整させられる。

私たちには不可能だろうな。

親が元気で判断力があるうちから、私たちにはこの終末の対応は能力の限界であることを悟っていただかなくてはならないだろうし、

私たちも自分でも悟っておく必要がある。

きょうだいなり、身内に、主導してもらえるなら主導を渡して、約束しておくのが無難だろう。

主導を渡す人間が気に食わない、というケースもあるかもしれないが、少数派だと思いたい。


中には、軽度当事者が、親の危篤からお葬式までの流れに乗れず、他の身内に任せて、別生活をしたり、

親自身が、身内を看病に来させず、自分で自分を隔離したケースもあるようだ。

共感、いつできるのか。情感を使う時は、いつ来るのか。

極端から極端のジェットコースターから、いつ降りられるのか。

嫌だなー

私なら、と想像してしまう。私なら、人生の最後は、構って欲しい

自分がして欲しいことは、基本、近い人間にもできるだけしようと努めるものだと考えている。

でも、実際、毎日のルーティンがあって、それを崩されながら、事前の指示も見守りももらえないで頑張れと言われたら、

実際、どれだけ実行できるものなのか。

共感、いつできるのか。情感を使う時は、いつ来るのか。

極端から極端のジェットコースターから、いつ降りられるのか。


分からないものは、分からないし、いつか来るものは備えるしか無いでしょう、と野良レモンは考える。

あったらいいのにな。

お葬式のプロや、共感の仕方を説明できるカウンセラーや、親を見送ったことがある軽度当事者が、

こういう場合が来るからこうしなさいとか、こういう気分になるよとか、こういう場所では饒舌にならなくていいよとか、解説してくれたら。

あったらいいのにな。

親の週末、じゃなくて終末期対応講座、みたいなのが。