このブログの文にありがちな、矛盾

偉くて、怖い、分かりやすいお姉さんの話を聞いていて、あることに気付いた。


偉くて、怖い、分かりやすいお姉さんとは、久しぶりに出したから解説すると、

ユーチューブで見つけたコンカツ会社の偉い役職の、やり手のお姉さんの講義である。
コンカツしに来た男女たちに、同じような指導を何人にも、何人にもするのが大変で、もう動画で言っちゃうことにしたんだそうな。
分かりやすく伝わってくる言い方がすごいので、野良レモンもそのへんを勉強しているつもり。


お姉さんが力強く語り、野良レモンに伝わってきたこと。

●平成から令和に進み、『結婚』という行動に夢を見られる時代ではますます無くなった、とのこと。

●片方が年収が多い『結婚』も、共働きして家計が成り立つ『結婚』も、どちらも戦って生きていくのが前提、とのこと。

たぶん、他にもいっぱい言ってるけど、重要な要点としてはここ二つが記憶に残った。


自立、自律、人との距離の取り方、男女お互いへの理解の仕方、自他の区別の付け方、子離れの仕方、育て方、尊重の仕方、貯め方、使い方、………

そんな常識や知識を、職場なりでもまれ、鍛え、男女とも一人前に身に着け、備えた成熟した大人同士が、

毎日、何年も何年も、相手を大切にするためにモニター能力を使って察しながら、話し合いながら、

家計を潰さないように、共同生活を破綻させないように、男女とも戦って作っていくもの、と野良レモンは理解した。

そこにふんわりゆるゆるした”夢”が入るから、進行がぐっちゃぐちゃになっていくものなのだ、と野良レモンは理解した。


いやー、自分がしなくても勉強になりますね。イヤだイヤだ。

軍隊の規律の圧迫感で過呼吸気味になりそうです。

コミュニケーションで”ハズレくじ”を引いても、引かせてしまっても、大らかに赦し合って、話し合って現実問題を解決して次へ進む 軍規 がある限り、承認欲求の迷子の私たち軽度当事者は、PTSDをまぬがれないじゃないですか

どんなに不可能なことか、具体的に、知れる。

二人でも戦う。一人でも戦う。男女ともそういう時代なんですって。イヤだイヤだ。

なら、戦って休み、戦って虚脱して休み、また戦ったらまとまった時間をやりくりして、いろいろを後回しにしたりキャンセルしたりして作って休む必要がある野良レモンは、一人で戦って休むしか生きて行けないです。

やりくりして作った時間に、だれかがなにかブッ込んじゃいけないんですもん。夫婦の協力って、結局時間が潰されっ放しじゃないですか。キャパオーバーしても。イヤだイヤだ。不可能だ。


ありがたいですね。野良レモンの仮説に、根拠が付けられて行って、肯定されていく思いがする。安心感が違います。




話を戻す。

私がしょっちゅう書いていること。

私は、自分を過大評価することにみっとも無さを感じる。

私は自己肯定感は、考えた結果、私にそぐわないからまだ持てないこととする。

でも、世の中の軽度当事者、特に若い軽度当事者は寂しさの埋め方として、自分を安売りすることはあってはならない、という”反対”意見も私は持っている。

生活上の不便と、自分の尊厳、という別物が、ごっちゃになるのは、社会が悪いのであり、SNSや出会い系機能のある場所で出会った見ず知らずの他人に当たったりすがったりするのは筋違い、それでキープする人を作ったり、キープされたりすることに慣れるのは、自分や人を粗末にする”ぬるま湯”に浸ることであり、危ないことである。それなら相手にされなくても生活上の不便はお医者に訴えることであり………

その昔、リタリンが必要だった成人軽度当事者は、社会から『いない存在』に扱われた屈辱を忘れてはいけなくて、QOLの向上を諦め、文句の口を閉じることは、れっきとした障害者を軽視した国家権力の勝手気ままを認めて、屈することであり………

私がしょっちゅう書いていること。

私が主張していることは、自己を持っている人間が言うと、説得力があることなんだよね。

自己肯定なんて、突き詰めると自分視点ではあるんだけど、

自分視点をちゃんと持ってこそ、ロムしてくれるお相手の自分視点に、訴えかけて、響いて、共感を得ることが出来る。

なのに主張と、主張の間に、矛盾があるから、たぶん、読者の人たちの中には、読みづらさを感じる人がいるかもしれない。


偉くて、怖い分かりやすいお姉さんの講義には、さすが、矛盾が無いんだよね。

さすがだなぁと、思い返していて、

私の文の特徴に気が付いた。

辻褄が、微妙に合っていない。

自己肯定感を持つことは遠慮してるのに、自分の意見は持ってる。ここに説得力が伸びない原因があるのだろうか


生活上の不便と、自分の尊厳、の二つがごっちゃになって整理されないまま、

たとえば「他人に優しく接すると優しさで返ってくるものなのです」とかって指導されて、「他人の厚意も優しさも信じましょう」って言われても、

その「優しい」言葉に具体性がなにも無かったら、私たちの生活は恐ろしいことになる。

たとえば、視覚に障害がある人に優しく「信号は、交通整理のために作られたものですよ。信じて従っていれば、車にはねられることはありませんからね」と何時間言い聞かせても、たとえ滝のような汗をかいて言い聞かせても、信号のある横断歩道のその場で、人なり、訓練された盲導犬なりが教えてあげないと、優しさは機能しない。そのような恐ろしいことになるのだ。

私たちが、ゴジラが日本列島に上陸することも許可する勢いで、従順に人に従い続けても、私たちの問題も、私たちを社会に住まわせる一般の普通の人たちの問題も、解決するわけないのである。

だからといって ジョーカー (ムテキの人?)になるのも答えじゃないんである。

答えを求めよう。無くても求めよう。それが人間としてのプライドではないのか。

そこをもっと分かりやすく説明して、伝え切れないと、辻褄は、合わないんだろう。

うわあ難しい。


辻褄合わせるのもいいんだけどさあ、これ以上なにか頑張るっていうところ、私には見つからないのよ

ASDだからさ、辻褄、合っていないところが見付かったら、辻褄合わせたいんだけどさ、

これ以上、なにを頑張って辻褄合わせるのかなって。

いったいなにを頑張るのかなって。


もっと細かく、面倒くさく書くと、自己肯定感を持っているポーズを取って社会へ出て行くと、

私たちが不便なのよね。

「一般の人達よりも仕事、勉強、コミュニケーション、できないくせに、なに自分を認めているんだよ」っていう意味で、他人様たちからは、反感を買う。

だから、解らないことを教えてもらえなくなる。主語を付けて話せない人とは共存できない。こちらが目と手を動かして作業している時に降ろされた連絡は私には機能しない。

でも分かっていないことは教えていただかないと次へ進めない。

でも教えてもらえなくなる。

でも自己肯定感だけでは進めない。フリーズする。

でも教えてもらえなくなる。

でも進まないと許されないのに。

でも教えてもらえなくなる。

言葉だけで分からないことの、見本を見せてもらえなくなる。

そしたら、不便だ。先へ進めない。生産できない。


「何回も教えたのになんで信号に従わない だから車にはねられたじゃないか 車のドライバーも可哀想じゃないですか そんなに意固地で反抗的で性格悪いまま生きたいならもう回りは一切助けません 自己責任を取って勝手に生きなさい 」

と言われたとしても、私たちが謝罪しても、実際に事故に何回も遭っても、人間関係や生産作業の交通量や風向きを察する認知力が無ければ、教えてもらわないと、危険は見えない。

つまりは私たちははねられて自己責任でしんでしまえ、と言われているのが現在の現状なのである。

一般の普通の人たちはそんなこととだれも向き合いたくない。だから黙る。逃げる。

そんな人々に救助を期待して待って、待って、待ってもたしかに無意味なんだろう。だからって私たちも逃げることが正解なのですか

逃げれば承認されて生かしてもらえますか


私たちは生活の全部を助けてとは言ってない。ピンポイントで助けて欲しい。そのポイントを、察してとは無理は言えないから、私たちから言いやすくして欲しい。

だから助けてもらうためなら、低い態度もする。謙虚にする。謙遜する。お気遣いする。

自己顕示欲とかメンヘラじゃなくて、生産するために、学ぶために、不便だからする。

だから、もしも仮免許のように仮の肯定感や、保留中の肯定感を隠し持っていたとしても、

外面としては、自己肯定感を持っていない体裁にしないと、私たちは不便で食べていけないのである。


しかし、人間の存在の仕方として、自分の意思も、主体性も持っていないと病むし、他人に頼ってばかりの生き方になるよ、と、私たちの多くが、病院などで指導されてきた。

二次障害をしょってしまうと、どうしても自力回復は不可能なので、どこかに教えを請わなくてはならない。

そこで、自己肯定感を持つように指導されて、でも持ったら、持ったで、社会の現場で嫌われるんである。

そんな現実が、軽度当事者、一般の普通の人たち、多くの人たちの間で、もみ消されてきていた。

面倒くさいからだ。


だから、〇 カ に す る な ぁ  と、言語化 に挑んでいるのが野良レモンだ。

まるごともみ消して、鎮火して、無かったことにするんではなく、整理したいのだ。

その、整理力が、野良レモンにはまだまだなのだ。

人に読み取ってもらえる、伝わる、印象に残ってもらえて、問題意識を持ってもらえる表現が、まだまだなのだ。


無かったことにされても、解決、しないもん。

社会の中で、たらい回しにされて、新しい環境に移っても、移っても、目を付けられて攻撃されてきた軽度当事者は数えきれないほどいる。

目を付けられる私たちには私たちの理由が、反省材料があるけれど、

目を付けて、目障りに感じて、怒りに点火する人たちの存在を、どこも炙り出してくれないもん。もみ消しぐらいで消えていなくなるわけが無いでしょう。


私たちの苦手、認知力の不足、視野狭窄、それらが『悪意』に認定されると、私たちは魔女狩りに合う。

だから、結果的に警戒し過ぎが、自意識過剰の言動になったとしても、私たちは、360度まわりの人物たちの思想を、察知し続け、見張るかのように観察し続けなければ、危険を防げない。

私たちは、やめない。


接する相手あって、私たちの不便はあらわになる。

だから、表現しづらい。

読んでくれる側の多くが、ネットを扱える軽度当事者だと察しているが、

軽度当事者自身も、当事者の苦労をする主役だったり、お世話をするわき役だったり、攻撃を受けた被害経験者だったり、支援や治療を受けて立ち直った人、適応した人寄りの人だったり、さまざまだから、

何人分もの視点から、感情移入が可能なのだ。

指摘、批判できるのだ。

一人で何人分もの視点を持つ当事者もいる。そんな訪問者の人数分、頭数分、当事者の視点が集まる。

何人分もの立場の人たちに対して、「ブログ主の野良レモンに共感されたいです あの視点に対してもこの視点に対してもいくつでも共感されたいです さあ共感してください 」と迫られても、

頭が追い付かない。

まだまだなのだ。


偉くて、怖い分かりやすいお姉さんのように矛盾なくビシッ とまとめられれば、読み手は安心して読めるだろう。


でもそれがうまくできないのだ。

野良レモンより学力の高い賢い軽度当事者はたくさんいると思われる。

分かりやすく表現して欲しい。


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