思考の交通事故 ・ こんぷらいあんす

通りがかりの夏祭りに、お腹を空かせて、のども乾いて、引き寄せられるように入ってきた。

普段、回転しづらい頭が、暑さでますます回らないので、

金額の暗算もしないで、屋台フードを買いまわってきた。塩分を食べると、身体が落ち着くのが分かるね。

大きな袋につまったえびせん、学生さんが食べながら歩いていて、うまそうだった。

ふらふらと買ってみる。「おまけつけてあげる。」「いえ独りで食べきれないので。お気持ちありがとう。」

塩味しないよ~ん

家で、塩を振って食べてみる。まだしない。

ネットで調べて、翌日はお惣菜を乗せてみる。ブチブチいってる。やっと、食事らしい味がした。

お祭りの妖精さん、呼び寄せてくれてありがとう。

キツネやタヌキの葉っぱじゃなくて、美味しい鶏肉を焼いてくれてありがとう。





昔、アジアに(というか、香港に)九龍城という、法治外の地域があったそうだ。

中国も、イギリスも、管轄する理由が無いよそっちがやってよと、譲り合って、逃げ合って、放置されるにいたったらしい。

そもそも建築法もどっちの国のも適用されないから、無茶な建築の家が積み重なって、

その上をギリギリに低く、空港に着陸したい飛行機が飛ぶ、

という世界から見ても珍しい、怖い物が見れる場所だったそうだ。


持て余されて、でも邪魔くさくて、自治が働くかと言うと、ゴミ問題とかそうもいかないこともあって。

なんか、中途診断二次障害野良当事者団の私たちのようだなーって。

立ちのきした人たちは、今、幸せなんだろうか

難民とかそういう人たちが、居付きやすい場所だったらしいけど、

住居と仕事は当たってるんだろうか。抱えている問題そのままに、理不尽にさまよわされ続けてやしないだろうか。





やぶへびという言葉がある。意識して調べるまで、恥ずかしながらよく意味を分かっていなかった。

突つくような余計なことをしたら、潜在化していた問題が、おお事になって飛び出てきて、周囲を巻き込んで大騒ぎにして悪い事件に発展してしまうこと。

スポーツを中心に、全国各地でこれが起こっている。

浄化というか、なんというか、クリアでクリーンな国になっていくのは、いいことだと思う。


私たちにも、いいか、良くないか、はおいておいて、衝動的によく『やぶへび』をやらかす一群がいる。

引っ掻き回し系とか、はっちゃけとか、組織破壊、ダイナマイト、学級崩壊の元凶、ネットであらゆる不名誉な呼ばれ方をされる。

だってぇー、思い付いたことが~、良かれと思った判断が~、選択したつもりでも~、

一般の普通の人たちの斜め上にしか行かなかったんだもん

注意欠陥(多動アリ、無し)/ASD他もミックスだと、沈黙したまま一人で思考の交通事故を起こし続ける。


この道は進まないと気が済まないの、この道を進むべきなのよ、ガリガリガリガリ

ガツン

許せない、許せないじゃないの、曲がらないよ納得できないから

ガツン

こんなはずじゃないでも今更曲がれない戻れない教われない分からない身動き取れないでも止まりたくない前進するしかないあっちは嫌こっちも嫌どっちも嫌どこも嫌もう嫌

ガツン


ASDスペクトラム部分は、処理できる情報量が狭いにも関わらず、一度集めた情報がいつまでも記憶に焼き付けられてしまうことがある。

ストレス感度(ストレスを拾い集める、反応する)が高まり、

ストレス耐性(ストレスを耐えようとする。ストレス源を解決する勧めやヒントを受け付けられない)も真面目に生きれば真面目であるほど高くなり、

常時葛藤に疲れたASDスペクトラム持ちができあがる。

そこに注意欠陥他まで加わったら、自分に起こったことを時系列に認識することも、説明も苦手になる欠陥機能も加わるから、ますます解決しなくなるってことだ。

他人に起こったことは、言葉で知らされれば言語通りに理解できたとしても、(だからADHDであれば、他人に起こった可哀想なことにはすぐ飛び付いて世話することがあるし、喜ばしいことには悪意無く反射的に冗談で侮辱してしまうエピソードがよくあるよね。)

自分に起こったことは、得なことなのか、損なことなのかから、認識する訓練をしないと、

放ったらかしにして分からないままにする危険をはらんでしまう。

騙されたり、周囲をヒステリーにされて、炎上されてしまっても、自然体で育つまま訓練しないと、

そもそも夏休みの宿題並みに、後々までいつのまにか流してしまうか、

焦りだけを一人で抱え込むしかできない脳機能になるしかないんである。





「野良レモンは自分を知らない」

リアルの人生で言われたことがあるよ。

知ろうとしていたよ。

言い返さないでその場はずっと謝ったけど。

その次は

探していたよ。

頑張って探していたら、どこから出てくるか、存在するかも分からない、理解者、支援者、通訳者が、

棚からスイーツが出てくるように、ある日、湧いて出てきて、

野良レモンと皆さまたちの摩擦や擦れ違いを、イリュージョンのように解決してくれるんですか

それとも野良レモンが、

どっかで勉強してきたら、自分を自分で通訳できるようになって、

だれにも不快感を与えないように演技して、人の問題まで引き受けて解決して、

その場にいても嫌じゃないスーパーマンなキャラに努力で変身して体面の挽回ができるはずでしょ、

知能指数平均値でしょう、やればできるはずなのに、なんで怠けてやらないのかな、謝意無いのかな、皆に悪意持っているんでしょ給料泥棒する気とか、

そういう脅迫が、野良レモンに通用するかどうか、挑んでいたんですか

聞きたい。でも聞かない。でも聞きたい。

私が探していたの。

私に問われたとしても、どうしようも無いですよね。

野良レモンが一人の力で対処する問題では、とっくに無くなっている。

とっくに手に負える問題では、無くなっているんです。

それでも『回りが迷惑です。自分で自分を知る努力をしなさい。』と野良レモン一人に問題解決を迫ることは、

“問題”が解決されないままいつまでもそこに存在するしかないので、

集団ヒステリーを呼び、野良レモンの無いこと無いことが、あるのではないかという疑念を集団で抱かせ、

野良レモンから現実には存在しない攻撃性を向けられるかもという妄想で、

それこそ被害妄想も抱かせ、

周囲の集団が防衛と先制攻撃することに正当性を なんとなく 持たせ、盛り上がらせてしまうのだ。

『障害者』を看板に書き込むということは、そうして、いつか集団幻覚を呼ぶ。

他の障害者は、みんな違ってみんな良くてもぜんぜんいいけれど、

私たちは、違うと攻撃される。

だれか、仲裁能力のある権力者が仕切ってくれないと、

勝手に始まる戦争が、収集つかなくなっていくのだ。


その事態の収拾、を、今までの時代は軽度当事者側の解雇で図ってきた。

その、解雇一辺倒の方法を、変えましょう、時代遅れですよと、本当は、文献とかマスコミとかが、呼びかけ続けてくれないといつまでも変わらないのだ。



マスコミ、文献、有名人、映画やドラマの創作表現、などである程度の成功がはかれているのが、LGBTの人たちだ。
(Qの人たちは、まだまだ理解されない、苦しい、と聞いている。)

権力のある管理職の役職にいる人が『障害者』の看板を見抜いて、

当事者が不利益を受け過ぎないような業務配置にしたり、

被害妄想過剰で集団ヒステリーを煽る資質のある人間を指導したり、配置を離したりすれば、

ボヤが火事に炎上する前に、止まる処置をはかれる。

だから、性別適合手術を受けた人たちが、安心して戸籍の性別も変えたり、しやすい時代になってきているのだ。


私たち、発達障害の場合は、こういう人間関係の配慮のほかに、

苦手な業務から遠ざけ、または詳細な指導をしてもらえるようにしたり、集中してできる種類の業務が多く当たる業務配置にしてもらう環境調整も加わってくる。

面倒くさいでしょ。

面倒くさいよね。

手が掛かるよね。


コンプライアンスという言葉がある。

時には内部告発を援護してでも不正を正し、当たり前の倫理を当たり前に守り、公正、公平にという意味だそうだ。

私たちに適用してもらえる場合、多大な手間と時間と人を動かし、

他を滞らせ、組織を引っ掻き回し、多数の人数の疲労、疲弊を招き、感情的にムカつく人たちも複数人出すのかもしれない。

迷惑と、呼ばれるのかもしれない。

それでもやってくれる時代に変わっていってもらうには、

本当は、もっと、説明力のある人たちが世の中に出てきて説明してくれないと、広まらない。

「困り感あるね。」→「診断受けたね。」→「福祉支援受けられたね。」→「自己肯定できてめでたしめでたし。」

ばっかりが強調され、クローズアップされていくような、もどかしさが、野良レモンはイラつくぐらい止まらない。






ちょっと読み返してみて。

コンプライアンスという言葉がある。

時には内部告発を援護してでも不正を正し、当たり前の倫理を当たり前に守り、公正、公平にという意味だそうだ。

私たちに適用してもらえる場合、多大な手間と時間と人を………………



違和感、または、イラッとくる箇所は無いだろうか。

なんの疑問も、引っ掛かりも無く、するする読んでいただけたんだろうか。


引っかかってほしいところ、分かります

私たちに適用してもらえる場合

あえて、わざと、書いてみた。

これ、本当は卑屈過ぎる表現よ

実現できないだけで、本来なら当然の人権を主張する時に、こんなに大袈裟にへりくだるのは、嫌味なくらいなのよ

卑屈に、へりくだり、自分を貶めることに、こんなにも私たちは慣れ過ぎてしまってる。

社会の一般の普通の人たちの中でも、特にまっとうな感性をした良識と教養ある一般の普通の人たちの中でこんなこと言ったら、

違和感を持たれてしまうかもしれない。少なくともお友達にはなれない人、に分別されてしまうかもしれない。

謙遜がすべて正解ではないらしい。あああ、面倒くさいね


自己卑下、自虐という二次障害は、根を深く私たちの中に張っている。

インターネットも、私たちの病(やまい)を、悪化させこそすれ、回復には導けなかった。

自己努力には、限界がある。

そもそも限界があるから私たちの症状は障害に認定されて二次障害も問題視されている。

正解を作るなら「適用してもらえる」じゃなくて「適用する」で、いいんだろうと考える。

でも、それがやりづらい。書きづらい。

書けない、私たちの歴史があるから。『発達障害』の二十年前後の歴史があるから。





「困り感あるね。」→「診断受けたね。」→「福祉支援受けられたね。」→「自己肯定できてめでたしめでたし。」

日々、強調されている、理想の解決方法。

理想へ向かうルートから、いつまでも、なにしても、はずれてしまう中途診断二次障害野良当事者団

私たち以外の軽度当事者たちばっかりが強調され、クローズアップされていくような、

もどかしさが、野良レモンはイラつくぐらい止まらない。