オツムの自他の区別

過去記事の、箱の中で生きているかどうか分からない猫、

これは『シュレディンガ―の猫』っつって、やっぱり、野良レモンとは別の、秀才世界で生きてきた人たちの扱う

物理の理論らしかった。

国公立大学とか大学院で理数をやっている人たちの生きる異世界には、野良レモンはもちろん踏み込む資格は無い。

これは、文明の利器、パソコンが発明され、庶民にも出回る時代になったから、

野良レモンにも拝見出来たパラレルワールドでしかない。

庶民として感じた感想は、これは、『壮大な“たとえば”』なんだろうと思う。



頭のいい人

「この学問ってこんなに素敵で大好きなの。実はこんな素敵な解析があって感動もので………」 ⇒ 「わかるわかるわかる気がする」


野良レモンたち平凡で不景気な一般庶民

「分からない。使えない。こんなのできる天才秀才の気がしれないね。」 ⇒ 「そうそうそう難しい分からないこんな知識もういらない」




しかし本題はここではない。

この、ネットの噂をロムして影響される人たち

実はこの“影響”されているタイムが、自分の脳みその思考の流れを、人任せで決められる、

受け身で楽ちんで、好物の人によっては快感すら伴う安らぎのひと時なのだ。これが本題だ。



ティーンの思春期たちならわかる。

しかし成人しても、これに取り憑かれ続けて、一日24時間、“影響”タイムのことばかり考えて、“影響”してくれそうな存在を

追いかけ回して「わかるわかるわかる」しているようなら、

もう立派な、矯正が必要な病人であるんじゃないかと野良レモンは思う。


たとえば、本当は、違う分野に適性があるかもしれない青年が、

たまたまA○Bファンばっかりの人間関係の中で生活していて、強制的に誘われているうちに、

自分もアイドルの中にだれか好きな人を作らなければならないんじゃないかという気分にだけなっていくような

でもA○Bにたくさんのお金を使わされた後、本当は野菜の栽培に才能と適性がありました、とわかったけれど、

貯蓄が少なくなっていて、農地を借りられませんでした、という悲しい結末になるような


ティーンは、所属の欲求も、競争したい欲求も、知的好奇心も、新鮮なホルモンが常に湧いていて、

なにか食べさせでもしない限り、走り続けているから、もうそれでいい。


成人は、自立して社会で生きていかなくてはならなくなった、段階の立場である。

走ってばかりだと、足並みはそろわず、必ず、人や、自分の身体の健康の壁にぶつかってしまう日がくる。

それでも、人格や所有物の自他の区別が付いているなら、まだ社会での生活力はあると言えよう。

「わかるわかるわかる」中毒でも、生きていけるっちゃあ、生きていける範疇である。

しかし、

一度、そんな振り回されて安定して喜んでいる我が身をに映して自分で診れる

(見れるともいうけど、観れるでもいいかな。)経験をすると、

こんな恥ずかしい姿は無い!

「わかるわかるわかる」の内容を、頭の中で思い出して再生してみよう。

自他の区別を自分から喜んで放棄して、尻尾を振って、脳みそをその場限りの貢物として、

差し出していることが、わかるだろうか。

小さな小さな洗脳を、いくつもされて安心することを、日常に、山のように積み上げて、しかし、自分の生活力や、人間としての厚み、にはなにも蓄積されない。


親も、野良レモンの言動から、

もしかして野良レモンがそんな中毒になっているのではないかと、想像して察してしまうと、

心配して野良レモンに指導を入れてくる。

社会性として、自己責任の限りなく小さい内容で、『話を合わせる』という仕事なら、仕事としてする。

意固地な人とは思われたくないからね。

しかし、仕事としての必要性が無くても、たとえばこういうインターネットサーフィンのように、

自分から、自分の意志で、浸る思想を追い掛けるようなこと、こんなことは無駄だからやめなさいと、

実は言われている。

だって目眩とかがきっついお年頃なんだもん。立てないときは、無駄にイライラするより、こうしていたほうが楽じゃない。軽度発達障害は、息抜き方法をいくつもいくつも持って、小刻みにしていないと、簡単にストレス量がマックスに溜まるんだよ。


それだけ、周囲から客観的に眺める人からは、“影響”タイム中毒の人は、

奇異に見える者なんだと思う。