残念な美意識なのはわかってるよ

ある日、急にビビッときて買った、岩塩がある。

砕きながら振りかけられる、ミルが取り付けられている容器だ。

今までは冷ご飯を握って保存する時、振りかけて塩結びにしていた。

しかし、いざレンチンして食べるとき、塩は溶けて、ご飯に沁み込んでしまっているので、

岩塩の味を存分には味わえなかったのだ。

今日、これも急に思いついて、もう塩を振りかけることもやめて、塩無しで握って、

レンチンしてラップを開いた後に、食べる直前に岩塩を振りかけることにしてみることにした。

あちらの世の、ご先祖さま達、諸先輩方が、

「アホー。高血圧なるぞー。デブー。」と、呆れられるかもしれない野良レモンだ。



こんな野良レモンでも、

冬のほとんどを『菌ホイホイ』な危ない身体で過ごすような、使えない身体でも、

一般の普通の人たちは野良レモン抜きで勝手に雑談を進め、

ネットの当事者の人たちには自分の都合や気分で勝手に野良レモンとの距離感を決められ、

なにも、どこからも“一貫”が保証されない野良レモンでも、

捨てられないものが、美意識、なんだろう。

ほんとうは、

ネットで匿名で「詰んだ詰んだ」ってダラダラ書いて、時間を無駄に浪費しない内に、

とっとと不貞寝して、表現もしないで、不貞腐れていてもいいのかもしれない。

だれも、野良レモンを戒めも、指導もしないのかもしれない。

勝手に自己正当化をして自分を甘やかしていてもいいのかもしれない。

ゲンゴカーも頑張らせないで、努力させないで「だって健康って大事だし。」と言い訳していればいいのかもしれない。

しかし、今の一般の普通の人たち社会は、中途診断二次障害野良当事者団の健康なんて、ほんっとうに、どうでもいい。

目にも入らない。米を一粒食べさせるに値する価値の評価もしてはくれない。気高くも尊くもなんともない。

その、空気のように重さの無い価値に甘えて、

私たち自身も、価値観や倫理観とかの『整理整頓』は、さぼってしまってもいいのだろうか?

もう面倒くさいから、放棄してしまってもいいのだろうか?

私たちは、外も、内も、ゴミ出しをしなければゴミがえんえんと溜まり続ける傾向がある。

ゴミのように溜まった、嗜癖依存を整理できなければ、依存欲求はいつしか脳みその中をジャックし、

躁病へ向かうかのように脳みそは病み続け、

一般の普通の他人のみなさまたちは、手っ取り早く理解しやすい原因、つまり

当人の傲慢や怠惰の自己責任なんじゃない?たぶん?わかんない。知らない。と切り捨て、

忘れる自由を行使する。

無関係な人たちの特権。忘れる自由。



どうでもいい人って、忘れやすい。軽蔑する人も、興味が無くなるものなので、忘れやすい。

私たちは、いつか、忘れられるどうでもいい人、になるかもしれない。

しかし、どうせ忘れられるからって、評価されないからって、私たちは、

自分の中にも、自分の身の回りにも、ゴミを溜め続け、ゴミ屋敷にするのだろうか?

私には、それはどうしてもできない。




そういえば、一つ思い出したことがある。

私は、薬を飲む場合、副作用に血圧降下作用がある薬を飲むと、

思考が弱ってヨレヨレになる。

お仕事に支障が出てしまうから、たとえ風邪薬(大半はそうだねえ。)として出た場合でも、

余程の重要な効き目でなければ、副作用を調べたうえで、私はその薬を除ける。

重要な効き目であっても、半分に割って減らして飲む。

良くないことなのは分かってる。

自分を危険にさらしてでも、しがみつくのが社会参加のサバイバルなのだ。


私は薬の副作用で、朦朧として理性が薄くなりながら、のんびり療養して治す時間は無い。

熱が無く、真っすぐ歩けて、職場の指定感染病ではなければ、基本的に休む理由は無い。


血圧が降圧している時、私の不注意は倍増しする。若い時は精神異常を疑うほどした。

人が大切な言葉を話していても、言葉の切れ切れが記憶の中でゆらゆらするだけ。

何秒か後に全部忘れるが、休日に大量に思い出し続ける。


離人症状という言葉があるが、人からだけでなく、リアルの現実で起こる全部の現象からも、

降圧した私の頭は、理解を拒否し続けた。

なにを指示されているかさっぱり分からなくても、私の口は「はい」と返事をし続けた。

だって、そうするものだと思っていたから。

そうしか知らなかったんだもん。


診断の前後から入っていた、当事者の励まし合い場所の人たちから、レスやメールに反応してもらえたり、

本で『本来発達障害当事者がもらうべき、分かりやすい指示とは』を具体的に学ぶまでは。


見本を示されて、やっと具体的に、私と周囲の不具合を知って行けた。

「今のようなやり方じゃ駄目なの。昨日も駄目。困るの。どんなにみんなが困ってるかわかってね。ちゃんとやって。ちゃんと!」と後出しで、抽象的に言われる指示が、

私たちにとってはどんなに従うのが不可能で、苦痛で、侮辱に値するかが、社会に出た後から、

知って行けた。



話を戻して、

一般の普通の人たちなら、快感になるはずの、飲酒によるめいていも、

私は降圧作用のある薬で簡単に合法的にめいていに近くなり、思考を不能にできるので、人から話しかけられれば

自動的に「はい」と言う。従えない、理解できていない、聞こえていない指示でも「はい」と言う。

まず、聞き取れていないという事態を、認知しなくてはならない。

しかし、その前の会話を思い出して思考でリピートしていたら、それに気を取られて、

人の話を聞き取れていないという緊急事態も知覚することを、脳みそは拒否する。

過去の気になることに気が済むまでこだわることを、ASDのプライドかなにかが最優先しているのかもしれない。


私はこだわるの!気が済まないの!邪魔しないで!でも疎外しないで!評価もしなさい!


「はい」と言うべきではなくて、

違う受け答えを発言しなくては、言動の整合性が取れないから返事を考えなくてはならないのに、

脳みそが頑として動きださなくなり、そのまま忘れてしまう。

私は“人間”ではなくなる。


私はそんな自分の失態を自分に許さない!